2018年2月19日月曜日

2018年2月4日

2018年2月4日 降誕節第6主日礼拝説教要旨
 「当たり前のこと」 宇野稔牧師
  ルカによる福音書 2:41~52節
 イエスが12歳になった時の物語で、ルカにしか記述がありません。慣例に従って両親は過ぎ越しの祭りにエルサレムへ巡礼に行くのです。ナザレからエルサレムへ行くのにおおよそ3日間の旅だと云われています。祭りに参加するため、何日か滞在した帰り道で両親はイエスがいないことに気づきます。両親は翌1日かけてエルサレムに戻り、そして3日目に神殿にいるイエスを発見します。その間の両親の気持ちは心配を越えた「悶え苦しむ」という意味を示します。48節の両親の言葉に対して49節のイエスの言葉は両親にとって意味が不明であったとも書かれています。
 ではこの物語がなぜ書かれているのでしょうか。何か重要な意味を持っているのでしょうか。まず「3日」という数字です。つまり3日という数字を出すことで、これはイエスの十字架と復活に関する物語だと云っているのです。次に「捜す」「見つける」です。つまり「捜す、見つける」は死んだような存在に再び生命を与える神の愛を示します。だからこの物語は12歳の少年イエスの物語を借りながら、実は十字架と復活のことを語っているのです。ルカはイエスの言葉として「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのが当たり前だということをご存じなかったのですか」と記しました。当たり前という言葉は原語で「神が定められた」という意味を持っています。つまり十字架と復活のイエスこそ救いの中心であってこれが神の定められたことなのだというのです。イエスの両親は見失ったと思い、悶え苦しみました。しかし彼らは3日目に出会います。
イエスは自分を裏切り見捨てた人間のために十字架につかれました。イエス自ら十字架の苦難を負うことによって愛とは何か、愛によってつくる神と人間の関係は何かを具体的に教えてくださったのです。復活して生命となって下さったのです。その3日目のイエスこそ救いの中心です。神が定められたことであり「当たり前のことだ」とルカは語ります。私があなたを愛していることは「『当たり前のこと』なのです」と。

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