2019年3月24日 受難節第3主日礼拝説教要旨
「自分も知らない」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 9:18~27節
3週目の受難節をむかえました。この時にあって聖書日課に与えられた聖書箇所は、イエスが祈った後に弟子たちに対して「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と問う場面でありました。今日の社会状況の中で、このイエスの問いかけは何を意味しているのでしょうか。
総務省の調査によると年々インターネットの利用者が急増しているのだそうです。数年前までは想像もできませんでしたが、スマートフォンの普及も手伝ってインターネットによる生活の変化は大きなものとなりました。教会の活動も、インターネットを利用して行おうとする動きがよく見られるようになりました。いつでもどこでもインテーネットを介して他人とつながることができる、情報を知ることも発信することもできる、そのような時代へと変わろうとしています。しかし便利な反面、インターネットによる差別事件が多く起こっているという実態もあります。「ウソ」で「差別的」な情報がインターネットには多く流れるようになりました。私たちは多くの情報に囲まれて生きていますが、その情報が真実なのか一人一人がしっかりと考えなくてはいけないということが強くなってきています。
イエスに問われた弟子たちは、巷で流れていたイエスに対する噂話を語ります。「洗礼者ヨハネ」「エリヤ」「預言者の生き返り」これらの噂話はヘロデ王も聞き、イエスに対して危機感を覚えたものでありました(9:7~9)。これらの噂話を聞き、イエスは弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と問い、ペトロは「神からのメシア」だと答えました。十字架の上で無残に痛みの中で殺されるイエスの受難を前に、「神からのメシアである」とのペトロの告白は、彼の想像を超えた意味を持っていました。イエスによる「あなたはどう思うのか」という問いかけ、今日の社会状況の中で強い意味を持つものではないでしょうか。多くの情報に囲まれる中で、私たち一人一人がどのように考えるのか、何を信じるのかということはいよいよ大切になっています。イエスの受難を知っている私たちは、ペトロのように「神からのメシアです」と告白することができるのか、そう問われているのかもしれません。
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