2021年9月18日土曜日

2021年9月12日

 2021年9月12日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

   「赦す、赦さない、赦す、赦さない。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 18:21ー35節

 昔、人は恋する年齢になると、花や葉っぱのある枝を見つけると、手に取って「好き、嫌い、好き、嫌い」というふうに占いました。使徒ペトロは残念ながら、そういう日々をもう卒業していたのでしょう。彼に葉っぱのついた枝を渡すと、葉っぱを一枚ずつちぎりながら、こう言いました。「赦す、赦さない、赦す、赦さない」。実際、使徒ペトロがそんなことをしたとは聖書にはのっていませんが、そうしたような気がします。皆さんは葉っぱのついた枝を手渡されると、どうされますか?。「好き、嫌い、好き、嫌い」とされますか?。それとも「赦す、赦さない、赦す、赦さない」とされますか?。

 使徒ペトロはイエスさまに「何度まで赦したらよいのでしょう。七回までですか?」と尋ねました。しかしイエスさまは使徒ペトロに、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われました。それは「徹底して」とか「赦せるだけ赦して」とかいうのではなくて、「あなたの思っているところを越えて、もうずっっっっと赦してあげなさい」と言われたのでした。そして、イエスさまは自分は赦されたにも関わらず、仲間を赦すことができない家来のたとえをはなされました。

 「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と、人を裁いたり、憎しみの側に引きずり込まれようとしている使徒ペトロに、イエスさまは神さまの愛に生きなさいと言われました。「赦す、赦さない、赦す、赦さない」と自分が赦されて生かされていることを忘れてしまっている使徒ペトロに、「神さまはどんなにあなたのことを赦してくださったか」を思い出しなさいと、イエスさまは言われました。

 私たちは神さまがとっても大きな愛と赦しをいただいている。このことに感謝して、このことを大きな喜びとして生きていこう。ほかのことは小さなことじゃないか。そんな小さなことにいちいちこだわっているよりも、神さまの大きな愛のなかにあることに感謝して生きていこうじゃないか。イエスさまは使徒ペトロにそのように言われました。

 使徒ペトロと同じように、私たちもまた神さまから大きな愛と赦しをいただいて生きています。まずこのことにこころを向けましょう。そして大きな喜びに満たされて、感謝して歩んでいきましょう。


2021年9月9日木曜日

2021年9月5日

 2021年9月5日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

   「良き祈りをもって生きたい。」 小笠原純牧師

     マタイによる福音書 18:10ー20節

 夏のスーツを新しく買った時に、名前を入れてくれるようにお願いをしたのに、名前が入っていませんでした。わたしの心の中に意地悪な気持ちが起こってきます。スーツに名前を入れてもらうためには、わたしがスーツをお店に持っていかなければなりません。わたしの失敗でもないことで、わたしがわざわざお店に持っていかなければならないわけです。「それって、どうよ」という気持ちが沸き起こります。わたしが何も悪いことをしたわけではないのに、わたしの中に意地悪な気持ちが一杯になり、わたしはなんて意地悪な人間なんだということが明らかになるというわけですから、なんとも不幸な出来事であるわけです。しかし意地悪な気持ちに流されないようにしたいと思いました。

 イエスさまは「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」と言われ、九九匹の羊と迷い出た一匹の羊のたとえを話されました。私たちは必ず自分が九九匹の側にいるという幸せな思い込みをもちます。しかしヨブ記のヨブのように、人はその人の善悪に関係なく、すべてのものが取り去られるというような苦境に立たされるということがあるわけです。

 またイエスさまは人に忠告するときは、配慮をもって行ないなさいと言われました。自分の怒りに引きずられて、みんなの前で攻め立てたりすることのないように。配慮をもって忠告をし、大切なのは、その人をやっつけることではなく、その人が悔い改めることであり、そして私たちが「兄弟を得る」ことなのだ。そのようにイエスさまは言われました。

 イエスさまは「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」「どんな願いごともかなえられる」と言われました。私たちはどのような願いをするのでしょうか。自分勝手な願い事をすることもできます。わたしだけが徳をする世の中であってほしいと願うこともできます。わたしの嫌いなあの人が、いやな目にあいますようにと願うこともできます。

 しかしそうしたことは、神さまの御心ではありません。「小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」のです。小さな者が大切にされ、やさしい配慮に満ちた世の中であることが、神さまの御心なのです。だから私たちは御国がきますようにと祈ります。神さまの御心にそう世の中になりますように。そうした良き祈りをもって生きていきたいと思います。


2021年9月4日土曜日

2021年8月29日

 2021年8月29日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

   「心踊らされて」 村上みか牧師

   マタイによる福音書 11:15ー19節

 コロナ禍のなか、私たちの生活は恐れや不安に包まれています。生活のさまざまな場面で生きにくさを感じ、悩んだり、落ち込んだり、また不満をもったり、怒ったりすることもあるでしょう。それはコロナ禍により大きくされた面がありますが、しかしそれはコロナ以前からもあり、しかも、その原因の多くは私たちの内側にあるように思われます。キリスト者として生きている私たちも、思っている以上に、この世の常識に合わせて生活し、それに縛られ、もがき苦しんでいるのではないでしょうか。私たちは、本当に日々、福音を生きているでしょうか。

 マタイによる福音書には、初期キリスト教徒たちが福音を宣教する中で周囲の常識にぶち当たり、葛藤する姿が垣間見られます。11章17節には、福音を宣教しても、人々に理解されず、それどころか迫害を受けるばかりの苦しみの中で、それを嘆き、悲しむ歌が歌われています:「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」ここには、福音を聞いても、常識や自分の思いに囚われ、なかなか大切なことが見えてこない人間の現実への批判が読み取れます。周囲の基準に自分を合わせる生活の中で、いつしか心がしぼみ、鈍くなり、美しい笛の調べを聞いても、心が踊らない。常識を批判し、神にある自由で豊かな交わりを教えるイエスの言葉を聞いても、心が開かず、理解できない。

 同時に、この歌には、福音は心を踊らせるものである、というメッセージを感じます。自分のことばかり考え、自分への執着が強い私たちが、その弱さや愚かさを知らされ、それを悲しみつつ、神に立ち帰り、豊かな愛と交わりの中を生きる、そのようなやり直しが許されているーこのような福音を受けたとき、私たちは様々な束縛や囚われから解放されて、自由にのびのびと生きてゆく、心踊らされて、軽々と生きていくことができるのです。

 そのような「とき」は、恵みにより与えられるものではありますが、すでにそれを経験し、確信している私たちは、そのための備えをすることもできます。自分の現実をよく見て、ダメだなと思い、やり直そうとすること、そしてそのような「とき」が訪れるよう祈り、相互に思いを寄せること、いろいろな備えが可能でしょう。そして、その備えを行うとき、心はすでに軽くなり始めているのだと思います。

 私たちの周囲には、コロナ禍をはじめ、様々な困難がひしめいています。その中で、しかし私たちはそれに押しつぶされることなく、心軽やかに身を捧げて生きてゆきたいものです。