2021年9月4日土曜日

2021年8月29日

 2021年8月29日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

   「心踊らされて」 村上みか牧師

   マタイによる福音書 11:15ー19節

 コロナ禍のなか、私たちの生活は恐れや不安に包まれています。生活のさまざまな場面で生きにくさを感じ、悩んだり、落ち込んだり、また不満をもったり、怒ったりすることもあるでしょう。それはコロナ禍により大きくされた面がありますが、しかしそれはコロナ以前からもあり、しかも、その原因の多くは私たちの内側にあるように思われます。キリスト者として生きている私たちも、思っている以上に、この世の常識に合わせて生活し、それに縛られ、もがき苦しんでいるのではないでしょうか。私たちは、本当に日々、福音を生きているでしょうか。

 マタイによる福音書には、初期キリスト教徒たちが福音を宣教する中で周囲の常識にぶち当たり、葛藤する姿が垣間見られます。11章17節には、福音を宣教しても、人々に理解されず、それどころか迫害を受けるばかりの苦しみの中で、それを嘆き、悲しむ歌が歌われています:「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。」ここには、福音を聞いても、常識や自分の思いに囚われ、なかなか大切なことが見えてこない人間の現実への批判が読み取れます。周囲の基準に自分を合わせる生活の中で、いつしか心がしぼみ、鈍くなり、美しい笛の調べを聞いても、心が踊らない。常識を批判し、神にある自由で豊かな交わりを教えるイエスの言葉を聞いても、心が開かず、理解できない。

 同時に、この歌には、福音は心を踊らせるものである、というメッセージを感じます。自分のことばかり考え、自分への執着が強い私たちが、その弱さや愚かさを知らされ、それを悲しみつつ、神に立ち帰り、豊かな愛と交わりの中を生きる、そのようなやり直しが許されているーこのような福音を受けたとき、私たちは様々な束縛や囚われから解放されて、自由にのびのびと生きてゆく、心踊らされて、軽々と生きていくことができるのです。

 そのような「とき」は、恵みにより与えられるものではありますが、すでにそれを経験し、確信している私たちは、そのための備えをすることもできます。自分の現実をよく見て、ダメだなと思い、やり直そうとすること、そしてそのような「とき」が訪れるよう祈り、相互に思いを寄せること、いろいろな備えが可能でしょう。そして、その備えを行うとき、心はすでに軽くなり始めているのだと思います。

 私たちの周囲には、コロナ禍をはじめ、様々な困難がひしめいています。その中で、しかし私たちはそれに押しつぶされることなく、心軽やかに身を捧げて生きてゆきたいものです。


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