2023年2月9日木曜日

2023年2月5日

 2023年2月5日 降誕節第7主日礼拝説教要旨

 「種を蒔いたらどうなるか」 前川裕牧師

  ルカによる福音書 8:4-8節

 イエスは「たとえ話」が上手でした。イエスは大工(家具造りなども含む)という、人々の生活に密着した仕事をしていく中で、人々がよく分かるような「たとえ」の対象を思いついていったのでしょう。「種蒔きのたとえ」は有名なものですが、現在の聖書ではそれぞれの種はこういう人のことである、という説明がついています。これは本来イエスが語りたかった意味ではなさそうで、のちに教会がつけていったものと考えられています。

 イエスが語ったのは、農業に携わる人たち、またガリラヤに生きる人たちが実際に経験していたことでしょう。ここでの種蒔きは現代からすればずいぶん大雑把に思えますが、しかし19世紀に描かれたミレーの絵「種を蒔く男」も同じ姿です。聖書のスタイルの農業はつい150年ほど前まで続いていたようです。道に落ちた種を踏んだ経験のある人たちも多かったでしょう。岩の上に落ちれば芽が出てもすぐ枯れてしまうさまや、茨などの雑草に埋もれてしまうのも通りがかりの人たちが見ていたと思われます。しかし良いところに落ちると、一粒の種が百倍の実りを結ぶと言います。たった一粒から大きな実りが生まれるという驚き、神の国もそのようなものであるというのがイエスの主張だったと考えられます。

 人間は「因果関係」を考える性質があります。それは「あれを食べると苦しむ」のように、身を守るために必要だった能力でしょう。しかし私たちは、「これこれを実行したのだから何かの結果があるに違いない」と考えてしまいます。「種を蒔いたのだから、全ての種に百倍の実りがあるはずだ」というわけです。しかし今日の「たとえ」にあるように、「種を蒔いたらどうなるか」という結果は、私たちには分からないのです。それは人知を超えたこと、まさに神の働くところです。

 では、結果が分からないのだからといって、私たちは何もしなくても良いのでしょうか。「種を蒔く人」は、文字通り「種を蒔いて」います。その結果は分からないけれども、それでも種を撒き続ける。多くの種は実を結ばないかもしれない。しかし「百倍の実り」がある可能性を信じて、種を蒔き続けます。それこそが、私たちに求められている信仰と言えるでしょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。結果はなかなか出ないかもしれません。それでもなお、神が与えてくださる実りを信じつつ、私たちはこの世界で種を蒔き続けていきましょう。


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