2024年1月28日 降誕節第5主日礼拝説教要旨
「神の国を目指して」 老田信牧師
マタイによる福音書 20:1〜16節
イエスは天の国の一つのイメージをとして、「ぶどう園の労働者のたとえ」を語られました。しかし、私たちはこのたとえにつまずきます。というのも、私たちの多くがこの話の中で、夜明けから丸一日働いた人と5時から働いた人が同じ賃金であることに不公平さを感じるからです。結果、このイエスのたとえが腑に落ちず、歓迎できません。
しかし、このたとえには次のようなことが書かれてあります。「午後5時ごろにも…人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った」。明け方から働ける人というのは、誰が見ても申し分のない働き盛りの男性であり、「役に立つ」人です。午後5時になっても雇ってもらえない人は、反対にどこの雇い人も雇いたいとは思わなかった人だということです。彼らは決してサボっていたわけではありません。
雇い人が雇いたいと思わない人とはどのような人なのか考えてみると、障がい者、高齢者等、少なくとも働き盛りの健康な男性ではありません。つまりマイノリティです。
マジョリティとマイノリティは、「多数派」「少数派」に加え、「特権側」と「従属側」あるいは「周辺側」という意味を持ちます。
午後5時まで職探しに明け暮れていた彼らは、明らかに周辺に置かれた者です。イエスは中央のエルサレムではなく、ガリラヤのナザレでお育ちになり、自らもそのような存在となりました。またまずガリラヤで伝道し、周辺の人たちに向けて福音を宣べ伝えたのでした。このようにして社会が後ろに置きがちな人のところへと先に来たのです。しかし全ての人が1デナリオンをもらっているように、神は誰一人として不足な状態に追いやるのではなく、満たしています。そしてそのようなところを「天の国」と言っているのです。
私たちはこのような神の国の実現を待ち望む者として、教会に集まっています。最も良いところとして、主イエスが示してくださっています。しかしただ待ち望むだけではもったいない。せっかく最も良いところのイメージを与えてくださっているのですから、具体化して予行演習をしたいのです。教会はそのような神の国の予行演習の場として与えられています。ぜひとも平安教会の皆さんが今の平安教会ならではの神の国を表現してください。そしてそれを多くの人と分かち合い、さらに発展させていくことが出来ますように祈りましょう。
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