2024年10月25日金曜日

2024年10月20日

 2024年10月20日 聖霊降臨節第23主日礼拝説教要旨

「悪より救い出したまえ」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 17:13-26節

 「これぐらいならまあいいか」と思って、だんだんと深みにはまってしまうというようなことがあります。ギャンブルなどもそうですけれど、まあちょっとだけと思ってやり始めると、財布の中のお金が全部なくなってしまっていたというようなことがあるわけです。私たちの世界はなかなか誘惑の多い世界で、「これくらいならまあいいか」と思っていると、とんでもないことになってしまうことがあります。

 イエスさまは弟子たちがみ言葉を信じることによって、聖なる者となることができるようにと、神さまに祈られました。そしてそのために、自分自身をささげて十字架につくと言われました。イエスさまはご自分が十字架という神さまの業を成し遂げることによって、弟子たちもまた神さまの御旨を信じて歩む者になることができると言われました。

 この世でいろいろな事件が起こる時に、わたしはちょっと不安になるときがあります。もしかしたらこの事件を起こした人のように、自分も誘惑に負けて、同じようなことをしてしまうのではないかと思う時があります。ですから主の祈りのなかにある「われらを試みにあわせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、わたしにとってはとても切実な祈りです。

 そんな私にとって、イエスさまが天に召される前に、弟子たちのために神さまに祈られた「悪い者から守ってください」という祈りは、とてもうれしい祈りです。イエスさまは私たちのために「悪い者から守ってください」と、神さまに祈られました。私たちは弱いですから、いろいろな誘惑に陥ってしまうときがあります。ふらふらと悪い者へと誘われてしまうときがあります。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまが十字架につけられたときに、ものの見事にみんないなくなってしまいました。イエスさまはそうした私たちの弱さを知っていてくださり、私たちのために神さまに「悪い者から守ってください」と祈ってくださったのです。イエスさまが私たちのために祈ってくださり、そして私たちは神さまの守りのうちにあります。

 神さまが私たちを守ってくださっています。弱い私たちですけれども、確かな方である神さまが私たちを守ってくださっている。このことを信じて、神さまにより頼んで歩んでいきましょう。いたずらに不安になった、恐れたりするのではなく、私たちには確かな方がおられるということを信じて歩んでいきましょう。


2024年10月18日金曜日

2024年10月13日

 2024年10月13日 聖霊降臨節第22主日礼拝説教要旨

「すてきなわたしにもどる」 小笠原純牧師

   マタイによる福音書 7:1-5節

 ある食堂で学生がラーメンを注文しました。しばらくしておばちゃんが、カウンタに座っている学生に、「ハイヨ」とラーメンの鉢を渡そうとしました。見ると、おばちゃんの指がラーメンの中に入っていました。それを見た、学生が言いました。「おお、おばちゃん、おばちゃんの親指がラーメンの中に入ってる」。すると、おばちゃんは「ああ、だいじょうぶ、あつくないよ。慣れてるから」と言ったそうです。

 みなさんはこの話、どう思われますか?。学生は「おばちゃんの指がラーメンの中に入って汚い」と思って、そのことを指摘したわけです。「わたしのラーメンにおばちゃんの指が入って、きたないじゃないか」と、学生は言ったわけです。でもおばちゃんは学生が自分の指があつくないかと心配してくれたと思ったわけです。学生は「おばちゃん、汚い」とおばちゃんを裁いたわけです。しかし逆におばちゃんの言葉によって、学生は自分が、おばちゃんのことを心配することのできない、思いやりのない人間であることに気づかされるのです。

 イエスさまは「人を裁くな」と言われました。「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。イエスさまは人を裁くと自分も裁かれることになる。あなたが人を裁いたように、あなたもまた人から裁かれることになる。そして互いに裁きあう世界に生きることになる。人を傷つけ、自分も傷つけられる世界に生きることになると、イエスさまは言われました。

 日常生活のなかで、いやな自分に出会うということがあります。人を裁いたり、いじわるな気持ちをもつ自分に出会い、「なんかいやなやつだなあ」と思うことがあります。でもそれだけでなく、自分のいいところも見付けてあげてほしいと、わたしは思います。「あっ、いがいに心のやさしいところが自分にはあるんだな」ということにも気がついてほしいと思います。

 私たちはみな、ひとりひとり、神さまに愛されている尊い人間です。神さまが「あなたはわたしにとってもとても大切な人だよ」と、わたしのことを愛してくださっていることに気がつきたいと思います。

 神さまの愛に気づいて、本来の「すてきなあなたに戻って」、人にやさしい言葉をかける、人を励ますことのできる、私たちの歩みでありたいと思います。


2024年10月11日金曜日

2024年10月6日

 2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「私たちに寄り添うイエスさま」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 11:28-44節

 父が生きているとき、わたしは「元気にしているかなあ」と思って、ときどき父に電話をしていました。そんなとき父は決まって「ああ、じゅんくんか。なんか用か」と言いました。わたしは「元気かなあ」と父のことを気づかってあげているのにと思っていました。しかしいま父が天に召され、ときどき「ああもう父はいないんだ」と思うとき、わたしは父のことを思って電話をしていたわけですが、しかしわたし自身が父の声を聞くことによって安心していたのだなあということに気づきました。自分のことを気づかってくれるだろう人がいるということは、その存在だけで、とてもありがたいことなのだなあと思いました。「いてくれたらなあ」と思える人がいるということは、とても幸いなことなのだと思いました。

 ラザロの復活の物語を読むと、イエスさまがどんなにラザロ、そしてマルタやマリアを愛しておられたのかということが、よくわかります。イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされます。いつもと違う雰囲気で、ラザロの復活の出来事に立ち向かいます。わたしはすこし人間があっさりとしているので、イエスさまが心に憤りを覚えたり、私たちと同じように泣いたりされるのを読むと、不思議な気もいたします。「イエスさまはそんなに興奮されなくても、イエスさまは神さまの御子だから、ラザロも大丈夫だよ」という気持ちをもったりします。

 しかしそれは聖書を読んでいるということのなかであって、実際の生活の中では、このラザロの復活の物語のなかで、イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされることが、やはりわたしにとっては大きな救いです。日常生活のなかで、わたしはいろいろと気落ちしたり、悩んだりします。なんか失敗したなあと思えたり、人を傷つけてしまって申し訳ないなあと思ったりします。怒りに取りつかれ、あとで考えると、なんかとっても嫌な自分だったと反省したりします。ラザロのために泣いてくださったイエスさまは、そんななさけないわたしのためにも泣いてくださると思えるからです。取るにたらないわたしを愛し、そしてわたしを慰めてくださるイエスさまがおられると思えるのです。

 ラザロの兄弟姉妹であるマルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら」と言いました。「こんなとき、イエスさまがいてくださったらなあ」と、私たちも思います。そして、その願いのとおり、イエスさまは私たちと共にいてくださるのです。

 イエスさまの愛に感謝して、安心して歩んでいきましょう。


2024年10月5日土曜日

2024年9月29日

 2024年9月29日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨

「神の栄光のために」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 11:1-16節

 私たちは大きな悲しみの出来事に出会うとき、「神さまはどうしてわたしの願いを聞いてくださらないのだろう」と思います。わたしは母がアルツハイマー認知症になったとき、長い間、「神さまはどうして?」という思いをぬぐい去ることができませんでした。

 ラザロの死と復活は、ヨハネによる福音書の中で特別な位置をしめている、イエス・キリストの死と復活との関連で、ラザロの死と復活があるのだと言われます。そして同時にラザロの復活の物語は、ラザロだけのものではありません。イエス・キリストは苦しんでいる人々や悲しんでいる人々に対して、同じように愛をそそがれます。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と同じような言葉が、「生まれつきの盲人をいやす」(ヨハネによる福音書9章1節以下)という聖書の箇所でも出てきます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。

 人から見れば、「ばちがあたった」「両親の罪のせいだ」という「不幸」について、イエスさまはそうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。またむなしさやはかなさという出来事に見える死についても、イエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。

 「私たちの経験するどんなことも、神さまの栄光のために用いられる」とイエスさまは言われます。神さまは私たちを愛してくださっているのだから、私たちに豊かな祝福を備えてくださる。イエスさまは空言としてそのように言われたのではありませんでした。それはイエスさまご自身の十字架での死によって明らかになります。イエスさまは十字架につけられて殺されました。しかし神さまはイエスさまの十字架での死によって、私たち人間の罪をあがなってくださいました。

 「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちはさまざまな悲しみや苦しみ、悩みや寂しさを経験します。そうした歩みをイエス・キリストは共に歩んでくださり、そしてその出来事を神さまの出来事として祝してくださいます。私たちが傷つき、疲れ果て、沈み込んでしまうとき、イエス・キリストは私たちを抱きかかえて歩んでくださる方なのです。私たちは共に歩んでくださるイエス・キリストに頼り、慰め主であるイエス・キリストと共に、神さまが備えてくださる道を祈りながら歩んで行きましょう。