2024年10月11日金曜日

2024年10月6日

 2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝説教要旨

「私たちに寄り添うイエスさま」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 11:28-44節

 父が生きているとき、わたしは「元気にしているかなあ」と思って、ときどき父に電話をしていました。そんなとき父は決まって「ああ、じゅんくんか。なんか用か」と言いました。わたしは「元気かなあ」と父のことを気づかってあげているのにと思っていました。しかしいま父が天に召され、ときどき「ああもう父はいないんだ」と思うとき、わたしは父のことを思って電話をしていたわけですが、しかしわたし自身が父の声を聞くことによって安心していたのだなあということに気づきました。自分のことを気づかってくれるだろう人がいるということは、その存在だけで、とてもありがたいことなのだなあと思いました。「いてくれたらなあ」と思える人がいるということは、とても幸いなことなのだと思いました。

 ラザロの復活の物語を読むと、イエスさまがどんなにラザロ、そしてマルタやマリアを愛しておられたのかということが、よくわかります。イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされます。いつもと違う雰囲気で、ラザロの復活の出来事に立ち向かいます。わたしはすこし人間があっさりとしているので、イエスさまが心に憤りを覚えたり、私たちと同じように泣いたりされるのを読むと、不思議な気もいたします。「イエスさまはそんなに興奮されなくても、イエスさまは神さまの御子だから、ラザロも大丈夫だよ」という気持ちをもったりします。

 しかしそれは聖書を読んでいるということのなかであって、実際の生活の中では、このラザロの復活の物語のなかで、イエスさまは心に憤りを覚えたり、泣いたりされることが、やはりわたしにとっては大きな救いです。日常生活のなかで、わたしはいろいろと気落ちしたり、悩んだりします。なんか失敗したなあと思えたり、人を傷つけてしまって申し訳ないなあと思ったりします。怒りに取りつかれ、あとで考えると、なんかとっても嫌な自分だったと反省したりします。ラザロのために泣いてくださったイエスさまは、そんななさけないわたしのためにも泣いてくださると思えるからです。取るにたらないわたしを愛し、そしてわたしを慰めてくださるイエスさまがおられると思えるのです。

 ラザロの兄弟姉妹であるマルタやマリアは「主よ、もしここにいてくださいましたら」と言いました。「こんなとき、イエスさまがいてくださったらなあ」と、私たちも思います。そして、その願いのとおり、イエスさまは私たちと共にいてくださるのです。

 イエスさまの愛に感謝して、安心して歩んでいきましょう。


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