2024年9月29日 聖霊降臨節第20主日礼拝説教要旨
「神の栄光のために」 小笠原純牧師
ヨハネによる福音書 11:1-16節
私たちは大きな悲しみの出来事に出会うとき、「神さまはどうしてわたしの願いを聞いてくださらないのだろう」と思います。わたしは母がアルツハイマー認知症になったとき、長い間、「神さまはどうして?」という思いをぬぐい去ることができませんでした。
ラザロの死と復活は、ヨハネによる福音書の中で特別な位置をしめている、イエス・キリストの死と復活との関連で、ラザロの死と復活があるのだと言われます。そして同時にラザロの復活の物語は、ラザロだけのものではありません。イエス・キリストは苦しんでいる人々や悲しんでいる人々に対して、同じように愛をそそがれます。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」と同じような言葉が、「生まれつきの盲人をいやす」(ヨハネによる福音書9章1節以下)という聖書の箇所でも出てきます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。
人から見れば、「ばちがあたった」「両親の罪のせいだ」という「不幸」について、イエスさまはそうではなく、「神の業がこの人に現れるためである」と言われました。またむなしさやはかなさという出来事に見える死についても、イエスさまは「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と言われました。
「私たちの経験するどんなことも、神さまの栄光のために用いられる」とイエスさまは言われます。神さまは私たちを愛してくださっているのだから、私たちに豊かな祝福を備えてくださる。イエスさまは空言としてそのように言われたのではありませんでした。それはイエスさまご自身の十字架での死によって明らかになります。イエスさまは十字架につけられて殺されました。しかし神さまはイエスさまの十字架での死によって、私たち人間の罪をあがなってくださいました。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである」。私たちはさまざまな悲しみや苦しみ、悩みや寂しさを経験します。そうした歩みをイエス・キリストは共に歩んでくださり、そしてその出来事を神さまの出来事として祝してくださいます。私たちが傷つき、疲れ果て、沈み込んでしまうとき、イエス・キリストは私たちを抱きかかえて歩んでくださる方なのです。私たちは共に歩んでくださるイエス・キリストに頼り、慰め主であるイエス・キリストと共に、神さまが備えてくださる道を祈りながら歩んで行きましょう。
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