2024年12月8日 待降節第2主日礼拝説教要旨
「人知をはるかに超える愛」 菅根信彦牧師
エフェソ 3:12-21節
★『新島襄と同志社教会』(加藤延雄・久永省一著・1987年)には、「1876年(明治9年)9月に海老名・宮川・徳富らの熊本バンド30名余りが同志社英学校に転校してきて、校内は俄かに活気を呈し、生徒の数も70名に達した」。「新島はここで機運がいよいよ熟したとみて、教会創立に踏み切ったのである」と記されています。そして、1876年11月26日にラーネッド教師宅において、市原盛宏を仮牧師として「西京第一公会」が誕生。次いで12月3日に新島宅において、新島襄を仮牧師にて「西京第二公会」(同志社教会)が設立します。さらに、同年12月10日に東竹屋町ドーン教師宅を借りて、本間重慶を仮牧師に「西京第三公会」(平安教会)が発足します。新島の「自由教育・自治教会両者併行」という理念が結実した時(カイロス)となりました。
★新島襄は、1864年、21歳の時に脱藩。アメリカに密航しハーディー家の支援で、フィリップ・アカデミー、アーモスト大学、さらに、アンドバー神学校で学んでいきます。10年後(明治7年)に31歳で帰国。日本にキリスト教主義大学の設立を使命と感じて、翌年1875年11月29日に同志社英学校を開校します。その後も教会や学校経営のためにその生涯を駆け抜けていきます。心臓病を患いながら、体に無理を重ねて、腹膜炎を併発し大磯の百足屋旅館に滞在、1890年1月23日に46歳と11ケ月で神のもとに召されていきました。
★新島が自分の死期をさとり、遺言を伝えた後、その日エフェソの信徒への手紙3章を小崎弘道に読んでもらいます。そして、最後の3章20節にきたときに、もう一度12節と20節を読むようにと指示します。そして、新島は「唯だこの力である。この力ある神によりて御業をなせ」と強く言ったとあります。自分の亡き後、人知を超える神の力によって全てを行って欲しいとの思いを伝えたと言われています。その胸中は漢詩「庭上の一寒梅」にも表れています。
★人知を超えた神の力を知ることとは「キリストの愛」を知ることです。その愛は私たちの考えを遥かに超えるものです。その愛を知る時に「大胆に神に近づくこと」(12節)が許され、最後の祝福のように、神の力に支えられ、栄光を神に帰していくことができるのです。新島もまたゴルゴダの丘のあの一本の十字架の極みにある「無償の愛」を知り、その恵みに応えて時代を駆け巡り、最後は神に栄光を帰す生涯を終えていったのだと思います。新島の「愛以てこれを貫く」との志を私たちも引き継いでいきたいと存じます。
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