2025年8月15日金曜日

2025年8月10日

 2025年8月10日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨

「罪人として招かれている」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 9:9-13節

 8月15日は80回目の敗戦記念日です。遠藤春子さんの「いのり」(『原爆詩集』、合同出版)という詩を読むと、いのちの力強さをいうことを思わされます。私たちの世界からなかなか戦争がなくなりません。しかしだからこそ、戦争のない平和な世界になりますようにという祈りを大切にしたいと思います。

 イエスさまは徴税人であるマタイを御自分の弟子とされました。そしてマタイの家でマタイの友人である徴税人や罪人と一緒に食事をされました。それを見たファリサイ派の人々が、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と、イエスさまを非難しました。イエスさまは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である」。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」と答えられました。

 イエスさまは神さまが望んでおられるのはいけにえではなくて憐れみであると言われました。神さまは罪人を憐れんでおられる。正しくあろうと思いながらも、正しく生きることができず、罪を犯しながら、神さまに憐れみを求めて生きている人々を、神さまはそのままにしておかれない。罪を犯し、自分に絶望し、涙を流しながら、心の中で神さまを求めて生きている人々を、神さまは憐れんでくださっている。だから「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

 私たちは罪人として神さまの前に招かれています。私たちは悔い改める罪人として、神さまの前に招かれています。私たちは罪人として裁かれるために、神さまの前に招かれているのではありません。私たちは赦されるために、神さまの前に招かれています。私たちは神さまの憐れみを、神さまの愛を受けるために、神さまの前に招かれています。

 だからこそ、私たちは自分たちの罪ということについて、謙虚でありたいと思います。人がどうであるとか、他の国がどうであるというようなことではなく、私たちキリスト者は神さまの前に自分がどうであるのかということを、心に留める者でありたいと思います。こころを静かにして、自分の歩みを振り返りながら、私たちは神さまの御前に立つ者であることを、心に留めたいと思います。

 「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」。神さまは私たちを悔い改めに導いてくださり、私たちを祝福してくださいます。神さまの深い愛に、私たちの歩みをお委ねいたしましょう。


2025年8月8日金曜日

2025年8月3日

 2025年8月3日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「許された者として生きている。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 5:43-48節

 41年ぶりに、この5月にフィリピンの首都のマニラにいきました。戦後80年になりますから、フィリピンを侵略した日本人というような目で見られていると感じるようなことはありませんでした。それでもフィリピンの国立博物館に行きますと、フィリピンの歴史のなかで、日本がフィリピンに対して行なったひどいことなどの展示はなされています。そのような絵画を見ながら、私たちの国がアジアの国々に対して行なった戦争のことを忘れてはいけないと思いました。

 イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。あなたたちは自分たちは神さまから選ばれた民で、特別な人間であると思っている。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われて、戸惑っているけれども、でも自分を愛してくれる人を愛するというようなことは、あなたたちが罪人だと思っている徴税人だってやっていることだろう。自分の仲間内にだけ挨拶するのだったら、異邦人だって同じことをしているだろう。あなたたちは自分は神さまの民で、自分たちは特別だと思っているのだったら、徴税人や罪人、異邦人たちよりもはるかに高い倫理観がなければ、おかしいだろう。神さまが完全であられるように、あなたたちも完全な者となりなさい。

 私たちは、「悪い人がいて、その悪い人が自分に対してひどいことをしてくるのに、その悪い人を赦すことができるのかなあ」という思いになります。悪いのは相手で、自分ではないというふうに思って、「敵を愛することなんてできるのかなあ」というふうに思います。

 でも私たちは「敵であるのに、赦された」という経験をもっています。私たちの国はアジアの国々に対して侵略を行ない、ひどいことをしました。それでも戦争がおわったあと、アジアの国々は敵である日本を赦し、日本を徹底的に憎み続けるということはしませんでした。日本と戦争をしていたアメリカも、戦後の日本の復興のために、いろいろなことをしてくれました。私たちは「敵であるのに、愛された」という経験をしています。

 私たちの世界が平和な世界になりますようにとお祈りをしたいと思います。あきらめることなく、互いに尊敬しあい、互いに思いやることのできる私たちの世界になりますようにと祈っていきたいと思います。


2025年8月2日土曜日

2025年7月27日

 2025年7月27日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「落ち着いて考え、前に進む」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 7:15-29節

 女優の長澤まさみは、「自分が他人の領域に入る際に大事なのは、相手へ敬意を払うこと」(CALSSY,2025.4.28)と言っています。倫理観をもって、互いに尊敬しあって生きていくということは、とても大切なことなのだと思わされました。

 何が本当か、何がうそなのかが判断がつきにくい社会になりました。「警察を名乗ってかかってくる電話は、詐欺の電話です」という電話が、警察からかかってきます。この電話ははたして警察からかかってきた電話なのか。「クレタ人はいつもうそつき」(テトス1章12節)と言っているクレタ人のような話です。

 「偽預言者を警戒しなさい」「偽警察を警戒しなさい」。詐欺事件やフェイクニュースにあふれた私たちの社会です。なかなか大変な世の中ですが、私たちはイエスさまの教えを大切にして、落ち着いて考え、前に進んでいきます。

 人にだまされないということも大切ですが、しかしもっと大切なことは自分がどのように生きるのかということです。ということで、何を土台にして生きていくのかということが問われるわけです。「家と土台」という聖書の箇所では、そもそもはイエスさまの言葉を聞いて行なうか、行なわないかということが問われているわけです。しかし読む私たちは、「何を土台にして生きていくのか」ということが気になるわけです。そしてそれは「何を土台として生きていくのか」ということは、とても大切なことであるからです。いいかげんなものを土台にしていては、人生をあやまってしまうのです。私たちは確かな土台として、イエス・キリストにより頼んで生きていきます。

 今日の聖書の箇所は、イエスさまの大切な教えが書いてあると言われる、山上の説教の最後のところにあたります。山上の説教は、マタイによる福音書5章からはじまり、7章で終わります。

 イエスさまは「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」と言われました。イエスさまは「あなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と言われました。イエスさまは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。イエスさまは「富は、天に積みなさい」と言われました。イエスさまは「人を裁くな」と言われました。イエスさまは「狭き門から入りなさい」と言われました。

 イエスさまの教えを土台として、イエスさまから離れることなく、歩んでいきたいと思います。