2025年9月27日土曜日

2025年9月21日

 2025年9月21日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「小さな者と共なる神さま」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 18:10-20節

 人間は絶えず緊張しているわけにもいきませんから、救急車が走っていても、「あ、また救急車か」くらいに思えます。でもその救急車のなかに、生死の境をさまよっている人がのっているかも知れません。救急車は走っているのを見るもので、自分が乗ることを私たちはふつう考えているわけではありません。しかし私たちが救急車に乗らないという保証があるわけではありません。それでもやはり私たちは、「あ、また救急車か」くらいに思えます。イエスさまはそんな私たちに、「大変な目にあっている人のことに思いをはせるということは大切なことだよ、小さな者たちのことを忘れてはいけないよ」と言っておられます。

 「『迷い出た羊』のたとえ」「兄弟の忠告」という表題のついた聖書の箇所は、全体として、「みんな一人一人神さまの前に大切にされているんだよ」ということが言われています。「一人とか、二人、三人」というのは、小さな数だからそんなのどうでもいいんだということではなく、神さまの前では一人ひとりが大切な人として愛されているんだということです。

 初期のクリスチャンは小さな集まりでした。祈りを献げるときも、成人男子10人集まらないということもあったのでしょう。ユダヤ教の枠内であれば、それは共同の祈りとならず、正式な集まりとならないわけです。それでは一人、二人の神さまに向かう思いというのは無駄なのか。初期のクリスチャンたちはそのようには思いませんでした。初期のクリスチャンは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という思いを持っていたのです。

 「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて生きるというのがクリスチャンの歩みであったのです。イエスさまを裏切った弟子たちのことも、イエスさまは愛してくださいました。そして弟子たちは、「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」という喜びに生かされて歩み始めたのです。

 イエスさまは小さな私たちを招いておられます。イエスさまはこう言われました。【疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう】(マタイによる福音書11章28節)。私たちは「この小さなわたしを神さまは見つめていてくださっている」との思いをもって、イエスさまの招きに応えて歩みましょう。


2025年9月20日土曜日

2025年9月14日

 2025年9月14日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「いいものみーつけた!」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 13:44-52節

 みなさんは最近、いいものを見つけられたでしょうか。お気に入りのものがあるでしょうか。わたしは3年ほど前に、銀座の伊東屋で買った伊東屋特製のボールペンが、お気に入りです。わたしは平安教会に赴任して、この9月で6年と二ヶ月になります。とても幸せなことだと思います。わたしがいま親しくしている人たちは、6年前にはほとんど知らない人であったわけですから、そうした人たちと親しく楽しく過ごしているというのは、とても幸せなことだと思います。良き友、良き教会、良き仕事との出会いであったと思います。たぶん「いいものみーつけた!」というのは、伊東屋特製のボールペンではなく、平安教会での交わりということなのでしょう。

 昔、昔のイスラエルの王様にソロモンという人がいました。ソロモンは神さまから「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われました。ソロモンは「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と答えたのでした。「長寿も富も敵の命も」というように、ほしいものはいろいろあるわけです。しかし「あれもこれも、それもどれも、ロフトでゲット」というわけにはいきません。

 私たちはときに、「あなたの大切なものは何ですか?」という問いの前に立たされます。元気に飛び回っているときは、考えることがあまりないかも知れません。「あれもこれも、それもどれも」と思いながら、多くのことを手に入れることができるかも知れません。しかし思わぬつまずきに出会ったり、あるいは年を感じ以前と同じように動き回ることができなくなってきたりするときに、私たちは心静かにして、「あなたの大切なものは何ですか?」という問いに答えなければならないときがあります。

 本当に大切なものは、「あれもこれも、それもどれも」ではないのです。本当に大切なものは、「持ち物をすっかり売り払って、それを買う」に値するものです。心の底から「これに出会うことによって、わたしは救われた」と思うことのできるものです。「あれもこれも、それもどれも」は、消え去ってゆきます。それは確かなものではありません。私たちの魂にかかわるもの、永遠なるものが、わたしたちにとっては確かなものであり、私たちにとって本当に必要なものなのです。

 神さまは私たちと共にいてくださり、私たちを守り導いてくださっています。確かな方により頼んで歩みましょう。


2025年9月13日土曜日

2025年9月7日

 2025年9月7日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「大切なのは愛だよ。」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 13:24-43節

 小説家の高橋源一郎は、生涯でもっとも感動したこととして、こんなふうに記しています。「ぼくが生涯でもっとも感動したのは、初めて付き合った女の子と歩いていて、触れ合った手を握ると、彼女が握り返してきたことだったかもしれない」(P.187)(高橋源一郎『ラジオの、光と闇ー高橋源一郎の飛ぶ教室2』、岩波新書)。誰かと手をつなぐということがその人の生涯にとってかけがえのない意味のあることとして残るというのは、とてもすてきなことだと思います。

 イエスさまが話された「毒麦のたとえ」では、早急に人を裁くというようなことはやめて、神さまにお任せしなさいというような感じでした。しかし「毒麦のたとえの説明」では、やたら人を裁くようになっています。毒麦は悪い者の子らであり、そうした人々はみんな集められて、燃え盛る炉の中に投げ込まれてしまう。そこで泣きわめいて歯切りしする。悪いやつらは徹底して、世の終わりの時に裁かれるのだというような感じです。もともと「毒麦のたとえ」は天の国のたとえ話であったはずなのに、なんか地獄の話になっているような感じがするわけです。やはり人は、人を裁くというのが好きなのだろうなあと思います。人はやたらと人を裁きたがるわけです。

 イエスさまはやたらと人を裁くのではなく、裁くのは遅くしたほうが良いと言いました。そして裁くのではなく、神さまの愛を伝えていくことが大切なのだと言われました。「大切なのは愛なのです」。人を裁いたり、自分を裁いたりすることではなく、神さまの愛を知ることなのです。使徒パウロは「いろいろなものは消え去っていくけれども、信仰と希望と愛はいつまでも残る。そして一番大切なのは愛なのだ」と言いました。コリントの信徒への手紙(1)13章13節です。愛は神さまから出たものなので、それがもっとも大切なのだと、使徒パウロは言いました。

 批判をすることも大切なことですが、しかしそれだけではだめなのだと思います。やはり愛が大切なのです。神さまの愛を大切にすることが、この社会を神さまの御心にかなった世界へと変えていくのです。

 この世にあっては、いろいろと悲しい出来事も起こりますし、怒り心頭に達するような出来事も起こります。それでも私たちはイエスさまの愛に満ちた世界に生きています。イエスさまの愛をしっかりと受けとめて、そしてイエスさまをほめたたえつつ、小さな良き業に励む歩みでありたいと思います。


2025年9月5日金曜日

2025年8月31日

 2025年8月31日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

「暗きの力には負けない」 小笠原純牧師

  マタイによる福音書 12:43-50節

 森まゆみの『暗い時代の人々』(朝日文庫)は、戦争中に「精神の自由」を掲げて戦った9名の人々について書かれてあります。その中の一人が大正ロマンを代表する画家竹久夢二です。関東大震災では自警団による朝鮮人や外国人に対する虐殺が行われました。竹久夢二は「自警団遊び」の子どもたちの姿を描きながら、自警団をつくって外国人を竹槍で突く人たち、またその風潮を批判しています。(『東京災難画信』)

 人はなかなか悔い改めることができないものです。イエスさまの教えを聞いて、一度は悔い改めるわけです。しかしそう長く続くこともなく、「まあいいか。神さまはやさしいから少々悪いことをしても許してくださるに違いない」というような思いになり、いいかげんになってしまいます。そして以前よりも悪い人間になってしまうということがあります。これを汚れた霊の側から見ると、イエスさまの譬えのようになるわけです。汚れた霊はイエスさまによって追い出されて、いろいろなところを一時期さまようけれども、また帰ってみると住みやすい人間になっていて、「これはいい」ということで、仲間の汚れた霊を連れてきて、その人の中に住み込むというわけです。

 それでも、少しでも神さまの御心に適った者でありたいと思うのも、私たちです。なるべく神さまの御心に適った生き方をしたい。神さまの御心に適うことができないにしても、神さまから残念に思われるような生き方はしないようにしたい。少しは神さまから「あなた、いいね」といわれる生き方をしたい。そのように思います。

 イエスさまの弟子たちがそうであったように、私たちはそんなに勇敢な人間でもないですし、なにかあると逃げ出してしまいそうになる弱さをもっています。それでもこころの中に、「暗きの力に負けない」という気持ちをもっていたいと思います。神さまの御心を行う人でありたいという気持ちをもっていたいと思います。私たちのプロテスタント教会の始まりである、宗教改革者のマルティン・ルターもまた「暗きの力に負けない」という気持ちをもって歩んだ人でした。讃美歌21-377番「神はわが砦」は、マルティン・ルターがつくった讃美歌です。

 私たちは弱い者でからこそ、神さまにたよって歩んでいきたいと思います。神さまが私たちの砦であり、神さまが私たちの盾であることを、こころのなかにおいて歩んでいきたいと思います。