2026年7月23日木曜日

2026年7月19日

 2026年7月19日 聖霊降臨節第9主日礼拝説教要旨

「力ある方に守られて」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 9:14-29節

 朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』は、私たちクリスチャンにとっては、目がいく小説のタイトルです。どうして推し活のはなしに、『イン・ザ・メガチャーチ』という題がついているのかということですが、推し活という経済活動を作り出していく方法が、アメリカのメガチャーチの信徒を組織していくやり方と似ているということからきています。『イン・ザ・メガチャーチ』という小説を読んでいると、『メガチャーチ』と『スモールチャーチ』は、別物だなあと思います。私たちは個人が自由に信じているということを大切にしています。信じさせる手法ということがあるわけではありません。

 今日の聖書の箇所は「信仰」ということについて考えさせられる聖書の箇所です。弟子たちがいやすことができない汚れた霊にとりつかれたこどもを、イエスさまがいやされます。イエスさまはいやすことができない弟子たちに対して、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれます。またこどもの父親が「おできになるなら」と言ったことについて、イエスさまは「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と、お叱りになられます。

 まあ、イエスさまからみれば、「信仰のない時代」ですし、「信じる者がいない」時代であるわけです。でもまあ、そんなにイエスさまにほめられるようなりっぱな信仰をもっているのであれば、イエスさまを頼って生きていくこともないわけです。りっぱな信仰をもってないから、イエスさまに依り頼んで生きているのに、「りっぱになれ」と言われても困ってしまうわと思います。

 そういう意味では、汚れた霊に取りつかれたこどもの父親の態度は、なかなか当を得ているような気がします。イエスさまから叱られると、とにかく「信じます」と答えます。もうあなたを信じるしかないのですと、父親は答えるのです。ただその信じるということは、自分が信じるということなので、はなはだ頼りないのです。自分は頼りにならない。ですから「信じます」と答えつつ、「信仰のないわたしをお助けください」と、イエスさまにお委ねします。私たち人間は神さまに助けていただくという形でしか、信じるということはできないのです。

 私たちは力ある方がおられるということを知っています。そしてその方をただ私たちは信じているのです。私たちは弱く力のない、また信仰の弱いものです。しかし力ある方が私たちを救ってくださり、私たちを導き、祝福してくださるのです。


2026年7月17日金曜日

2026年7月12日

 2026年7月12日 聖霊降臨節第8主日礼拝説教要旨

「希望をしっかりともって」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:22-26節

 お手本があるというのは、未来に向かって歩んでいく時に、とても良い指針になるような気がします。ワールドカップの日本代表選手の中村敬斗選手は、少年のときに「ロナウジーニョのようになりたい」と思ったということです。

 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で、「あなたがたもわたしのようになってください」(ガラテヤ4章12節)と言っています。使徒パウロは希望をしっかりともって生きていました。パウロの生涯はなかなか大変な生涯でした。迫害されたり、投獄されたり、伝道の途中で乗っていた舟が難破したりと、いろいろな困難の目に合いました。いろいろな苦難を体験しました。しかしそうした中で、使徒パウロは「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません」(ローマの信徒への手紙5章3−5節)と語りました。「希望をしっかりともって生きる」。これは私たちクリスチャンに与えられている大きな恵みです。

 イエスさまはベトサイダで盲人の目を見えるようにされました。盲人はイエスさまと出会うことによって、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになりました。「何でもはっきり見えるようになりました」という言葉は、目が見えるようになったということだけでなく、象徴的な言葉のように思えます。盲人はイエスさまと出会うことによって、自分がどのように生きていくのかということがはっきりしたということです。

 使徒パウロは、「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。・・・・・。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(1コリント13章12ー13節)と言いました。世の終わりのとき、私たちは神さまを顔と顔を合わせて見るようになるけれども、そのとき初めてはっきりと見ることができるのだと、使徒パウロは言いました。パウロは神さまと出会う時に、人ははじめてはっきりと見ることができるのだと言いました。

 神さまは私たちをその愛でもって包み込んでくださっています。私たちはしっかりと希望を持って歩みたいと思います。私たちは弱さを抱えている者ですけれども、神さまは私たちをしっかりととらえていてくださいます。私たちの弱さも含めて、神さまにお委ねして、そして希望を持って歩んでいきましょう。


2026年7月10日金曜日

2026年7月5日

 2026年7月5日 聖霊降臨節第7主日礼拝説教要旨

「恵みを見つける」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 8:14-21節

 私たちの日常生活、世界はわたしのためにあると思えるような毎日というわけではありません。「ない、ない、ない」「いいことない」。まあそんなふうに思えるときもあるわけです。しかしそれは神さまの恵みを見逃してしまっているのではないかと思います。

 イエスさまの弟子たちは自分たちの食事となるパンを持って来るのを忘れてしまいました。たぶんパンを持って来るのを忘れた人は、イエスさまに気づかれないうちに、こそこそっと抜け出して、どこかでパンを買ってこようと思っただろうと思います。そんなことを思っているときに、イエスさまが「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と言われたのです。弟子たちはみんな自分たちがパンを持ってこなかったから、イエスさまが怒っておられると思ったのでした。

 イエスさまはかなり激しい調子で弟子たちを諭されました。「どうしてパンを持ってくるのを忘れたことで、心を乱してしまうのか。それがそんなに大切なことなのか。わたしがそんなことで怒り出すと思っているのか」。「目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。「そのお前の顔についているのは何だ。目と違うのか。顔の横についているのは何だ。耳と違うのか」。

 私たちもまた弟子たちのように、小さなことに心を奪われてしまって、大切なことを忘れてしまっているということがあります。私たちの生活の中でいろいろなことが起ります。私たちにとって意に沿わないこともたくさん起ります。世の中、わたし中心に回っているわけではありません。どうもおもしろくない。どうもうまくいかない。また失敗してしまった。そういうことはありますし、まあ心地よいというわけではないでしょう。しかしそうしたことにだけ心を奪われてしまうときに、私たちは大切なことを忘れてしまっています。小さなことばかりにこだわっていると、大きな恵みに気がつかないということがあるのです。

 いろいろなことがある私たちの歩みですけれども、私たちは神さまからも恵みを見つける歩みでありたいと思います。神さまが私たちに備えてくださっている恵みに気づくことのできる歩みでありたいと思います。神さまはたくさんの恵みを私たちに備えてくださっています。私たちは宝物を探すように、その恵みを一つずつ探していきたいと思います。そしてその恵みを見つけて、「神さま、ありがとう」と神さまに感謝したいと思います。


2026年7月3日金曜日

2026年6月28日

 2026年6月28日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨

「わたしのなかに住んでいる罪」 小笠原純牧師

  マルコによる福音書 6:14-29節

 加藤喜之『福音派ー終末論に引き裂かれるアメリカ社会』(中公新書)には、福音派とアメリカ政治との関係の歴史について書かれてあります。1974年5月中旬に『ニューヨーク・タイムズ』紙に掲載された記事をみて、ビリー・グラハムは友人として親しくしてきたニクソン大統領が、とんでもない悪事を重ねても平気な人間であることを知ることになります。ビリー・グラハムは泣き悲しみ、嘔吐するほどだったと言われています。ビリー・グラハム牧師は倫理的な感性を失った大統領に失望したわけです。でもいまの多くの福音派の牧師たちは、倫理的な感性を失った大統領に失望するだろうかと考えた時、そうしたことはあまり関係のないこととして考えるだろうなあと思いました。

 洗礼者ヨハネは、イエスさまの前に世に現れ、人々に悔い改めを迫りました。政治家に対しても、痛烈な批判をしていました。洗礼者ヨハネはヘロデ王を批判していたため、ヘロデ王によって殺されました。ヘロデ王は洗礼者ヨハネによって批判されていたのですが、一方で洗礼者ヨハネが正しい聖なる人であったので、洗礼者ヨハネの話すことに耳を傾けていました。

 自分の中の罪ということに、真摯に向き合った人に、使徒パウロという人がいます。ローマの信徒への手紙7章7節以下に「内在する罪の問題」という表題のついた聖書の箇所があります。使徒パウロは自分の中に罪がいて、その罪が自分を悪い方へと導いていき、神さまの御心に反することをしていると言っています。

 人というのはなかなかやっかいなもので、一方で良い人でありたいと思いながら、他方で自分の好き勝手なことばかりしていたりするわけです。使徒パウロはそんなやっかいな人間の一人として、自分の中にある罪に向き合いました。そして自分ではどうすることもできないけれども、イエス・キリストがわたしの罪を贖ってくださり、こんな惨めなわたしを救ってくださるということに気づきました。そして使徒パウロはイエスさまに従って歩みました。

 私たちもまたいろいろな弱さを抱え、そしてときに邪な思いをもつ、やっかいな人間です。しかしそんな私たちを愛してくださり、私たちを祝福してくださる神さまがおられます。悔い改めの気持ちをもちつつ、神さまの愛を受け入れて、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。