2016年1月24日 主日礼拝 説教要旨
「洗礼者ヨハネ」 宇野稔牧師
(マルコによる福音書14章1〜12節)
イエスの時代力あるとされていた宗教指導者が洗礼者ヨハネでした。イスラエルに絶えて久しかった預言者の再来ではないかと捉えられていました。
ヨハネが訴えたことは、神の審きの日が近いと云うことで全国民に対して悔い改めを求め、そのしるしに洗礼を授けていました。そのヨハネが領主ヘロデが自分の弟の妻を娶ったということを公然と批判し逮捕されます。ガリラヤとペレヤの領主ヘロデはアラビヤ王の娘アレタスと結婚していたので、ヨハネはそれは律法違反だと指摘したのです。妻のヘロデイアはヨハネを憎み、機会があれば殺したいと機会を待っていました。
ある日ヘロデの誕生会で王の娘サロメが踊りを披露した褒美として、何が欲しいかと尋ねられ、ヘロデイアに唆され「ヨハネの首」を求めます。仕方なくヘロデはヨハネの処刑を行ったのです。
正しく生き、正しく語ったヨハネが非業の死を遂げるというこの出来事は何だったのでしょうか。ヨハネはどんなに無念であったかと考え、ヘロデは愚かであり、ヘロデイアとサロメは残酷だと考えます。
しかし、この馬鹿らしい行為を止める人はいなかったのでしょうか。誰も良いこととは思わなかったでしょう。疑問をもちつつ、沈黙してしまいました。沈黙は残酷です。これが人間(社会)の現実なのです。
実はこの福音書が書かれた時、迫害の中で投獄され殺されていくキリスト者をマタイは目の前で見ているのです。
ヨハネはイエスの道を備える者であり、生涯はイエスを示すためにあったいうのがマタイの考えです。つまり、ヨハネの死もイエス・キリストの死の予告、すなわち、十字架の予言として位置付けられているのです。
マタイは、人間の残酷さによって無念の死に見えるヨハネの死にも「大切な意味があった」ことを伝えているのです。そして、それは同時に今日、まさに困難の中にある人々への応援歌でもあるのです。理解なくとも、残酷であっても神の愛を生き続けることを敗北とは云いません。
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