2016年2月15日月曜日

2016年1月31日

2016年1月31日 主日礼拝 説教要旨
 「悲しみの中にこそ」宇野稔牧師
 (マルコによる福音書6章53〜56節)

 ベトサイダに向けて出発したはずなのに、到着したのはゲネサレトでした。この地はカファルナウム西数キロの地点のことで非常に肥沃な土地柄で作物が豊かに取れた地域でした。ガリラヤの中でも豊かな地域にやって来られたのです。
 しかし、この地域には病で苦しむ人々が多数おられました。豊かな農園の背後で小作人として朝から晩まで働き、それでも十分な食べ物が得られず、病になっても医者にかかるお金がなく困り果てていた人が大勢いたのです。56節を見ると「村でも町でも里でも」とありますからどこにも沢山おられたのです。
 病気の人と表現されている意味は、心や魂のことも含んでいるに違いにありません。だから病気というより「悲しみ」と表現した方がよいだろうと思うのです。
 イエスが歩まれた所には悲しみが溢れていたのです。人々は悲しみ、悩み、涙を流していたのです。そしてイエスはその人の涙を拭き、慰め癒されたのでした。私たちは平凡な波風のない人生が当たり前だと常に考えていますが、イエスが出会った人々は悲しみの中にある人たちで、それが普遍であり、当たり前だったのです。
 私たちも悲しみの中を生きています。人間として生きる時、悲しみの中を生きることを避けられない現実なのです。私たちは悲しみを敢えて避けようとしますが、悲しみの中で否定しようとします。しかし、悲しみの中でせめてイエスの服の裾でも触れたいという思いが描かれていますが、それが現実の姿です。悲しみの中で息詰まりそうになる時、一つの約束と希望が与えられています。神が共にいて下さるのです。どんな形で神が私たちを悲しみの中から立ち上がらせて下さるのか、どんな業を通して私たちを慰めて下さるのか、どんな人と出会わせて下さるのか、そして私をどういう風に変えて下さるのか、約束を信じ、希望をもってそれを待ち望みましょう。「あなたの信仰はどこにあるのか」、それは悲しみ、不安の真ん中でこそ働く信仰なのです。

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