2016年6月7日火曜日

2016年5月22日

2016年5月22日 聖霊降臨日礼拝 説教要旨
  「やめさせてはならない」宇野稔牧師
  マルコによる福音書9章38〜41節)

 弟子たちは自分たちの知らない人が、イエスの名を使って悪霊を追い出しているのを見て「私たちの仲間でないのだからやめろ」と云いますが、失敗したのでイエスに訴えるのです。ところがイエスは「わたしに逆らわない者は、わたしの味方である」と云います。これを単純に考えると心の狭い弟子に対して、イエスは心の広い方なのだという物語のように読めます。
 ところがマタイ福音書12章30節には「わたしに味方しない者は、わたしに敵対し...散らしている」。マタイでは味方以外は敵だと云っているのです。マタイの成立の成立的背景にユダヤ教からの迫害という現実があって、12章のところもファリサイ派との論争の中でイエスが云った言葉なのです。そこで問われているのは、イエスと共に歩むかファリサイ派に従うかという決断があり、迫害の中でもイエスと共に歩みなさいとの決断を促す言葉なのです。
 それに対して今日のマルコの文脈は、イエスに従う決意をした弟子たちに対して語られています。彼らがイエスに従うという決断はすでになされているわけで、その弟子に対して私たちに敵対しないなら味方ではないかと語っているのです。
 だからイエスが私たちという主語を使っていることに注目しましょう。即ち、自分の仲間として表現されています。そしてその行為を「やめさせてはならない」と語られるのです。男がイエスの名を使っているということは、イエスの運動に共感したり共鳴していることの証しでしょう。必ずしも正しい弟子でないかもしれないが、「敵でないなら味方ではないか」です。41節に「はっきり云っておく...水一杯をさし出したこと、その事を忘れない」というのです。イエスは十字架に向かっています。イエスはいのちを捨てる旅をしているにもかかわらず、水一杯を差し出したこと、このことを覚えそのことをもって報いて下さるというのです。
 キリスト者として適格者と云える者ではないにちがいありません。しかし器不足の者が差し出した水一杯をイエスは「忘れない」と語られるのです。

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