2016年6月5日
主日礼拝 説教要旨
「一つ足りないものがある」宇野稔牧師
(マルコによる福音書10章17〜22節)
富める青年に向かってイエスが「一つ欠けている」と云われたことを考えましょう。単純に考えれば「イエスに従うこと」でしょう。しかし、イエスは従うことや、全財産を貧しい人に施すということではないと考えておられます。イエスが求めておられる一つのものとは、この人がもったら永遠の生命に至り、神の国へと至るその根源が「一つ足りない」ものです。それを解く鍵が21節にあります。
イエスはこの人に目を留め、慈しまれたとあります。この言葉は「アガパオー」ですが、これはアガペーの動詞です。イエスはこの人を見て深い愛を覚えられたのです。愛のまなざしの中で語られたのです。ですから、この言葉は相手に不足を見出すための言葉でありません。むしろ、イエスが人を見つめ「私に従って来なさい」という時には、その人を招いておられるのです。「あなたに足りないものは一つだけだ」。イエスはこう語りながら、この人を招いておられるのです。
考えてみたら、この人も欠けの多い人間だったのです。足りない面を多く持っていたでしょう。しかし、彼は一生懸命に歩んできたのです。イエスはそのような人間を愛されたのです。足りないことが多くても、貧しい器であっても必死になって神の業を行おうとする人間を神は愛するのです。そのような人間を救いへと招かれるのです。
実に彼に欠けている「一つのもの」、それは神への信頼です。人間の破れを社会の破れを自ら貧しくなって十字架についてまで懸命に支えようとしている神への信頼です。彼の今日までの歩みの中に、そのような神の愛があったという信仰が彼に欠けていた一つではないでしょうか。逆に云えば、私たちに求められているものは、才覚や能力や資質ではなくこの一つの信仰だけだということではないでしょうか。
今年の平安教会では、宣教方針(総会にて承認された事項)の③で「地域に、家庭(家族)に伝道する教会」を掲げ、私たちの足りない点を補うことに集中するよう実際に伝道文書をもって励むのです。
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