2016年6月15日水曜日

2016年5月29日

2016年5月29日 主日礼拝 説教要旨
  「神の国を受け入れる信仰」宇野稔牧師
  マルコによる福音書10章13〜16節)

 イエスのもとに子どもを連れた母親がやって来ます。イエスの弟子たちはその親子を見て追い返そうとします。イエスが休むことの妨害になると思ったのです。それも子どもでなく母親を叱っています。子どものことで叱られることは親にとっては辛いことでした。
 ところがその様子を見ていたイエスは、その弟子を叱ったのです。しかも憤ったとかかれていますから激しい感情を表したのです。つまり、他では見たことがないくらい激しく弟子たちを叱りつけたのです。子どもがイエスのところに来る、そしてイエスの祝福を受ける。それは決して妨げてはならない行為なのです。
 イエスは「神の国はこのような者たちのものである。はっきり云っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ決してそこに入ることはできない」。そして子どもたちを抱き上げて祝福されたのです。イエスは子どもの何をそんなに評価されたのでしょうか。それは「神の国を受け入れる」と云う言葉です。神の国とは神の支配と言い換えることができます。子どものように神の支配を信じる者こそ、神の国にふさわしい者たど言われるのです。
 子どもは素晴らしい能力の持ち主です。例えば「仲直り」です。本気で大げんかしてもその直後に仲直りして、すぐに一緒に遊ぶという能力です。根底にあるものは他者に対する信頼です。子どもは言葉でうまく表現出来なくても、神が自分たちを愛しているという事を感じていますし、信じているのです。
 信仰の先達は、私たちに神の国を受け入れることの大切なことを告げています。それは自分を委ねて行くことです。無力なるが故に、出来ることがあるのです。そして無力な私が神と出会うのです。神の国を受け入れていく信仰、それを継承していきたいと願うのです。ここでイエスが特に強調されておられる点は、幼子のように素直になれということよりも、乳飲み子という言葉からも飲み込む、受け入れるという特色があると云われ、その点をイエスがここで引き合いに出された意味なのです。

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