2016年7月11日月曜日

2016年6月26日

2016年6月26日 主日礼拝説教要旨
  「自分をかけて求める」宇野稔牧師
  (マルコによる福音書10章46〜52節)

 イエスはエリコを通られます。ここは交通の要所でローマ、ギリシャの影響を多大に受けています。エリコはヘロデのお膝元でもありました。イエスがその町で視力に障害のある人で物乞いがいたのですが、その人は「ダビデの子、イエスよ。私を憐れんで下さい」と叫び続けます。しかし人々は彼を叱りつけます。何故でしょうか。
 ここで目の見えない人にイエスを紹介するのに「ナザレのイエス」という言い方をしていますが、マルコに4回出てきます。全ての場合イエスに対する無理解や悪意のようなものの存在を感じる紹介の仕方です。
 ヘロデの街エリコで「ナザレのイエス」だと紹介されたにも関わらず、彼は「ダビデの子、イエスよ」と言ったのです。この違いに注目しましょう。こう叫んだということは「私たちの救い主イエス」と大声を上げたのです。ここはヘロデの本拠地です。ユダヤ人にとっては、救い主はローマの支配からの解放してくれる指導者のことです。民がヘロデ以外の「真の」王を求めているという意味の言葉だったのです。
 これが信仰なのだとマルコは伝えたいのです。すでにキリストは十字架につく決心をしています。いわば、イエスも生命をかけて下さっているのです。しかしそれに対して私たちがかけるものが小さければ、イエスの愛の大きさが判らないのです。この一人のハンディを持っている人が自分をかけてイエス・キリストに救いを求めた時、イエスの愛の大きさを知ることが出来たということではないでしょうか。
 エリコという一番のヘロデの足下で、なお自分をかけて救いを求めたこの人の信仰に学びましょう。彼には神からの憐れみを受ける以外に生きる道がなかったのです。そこに叫び求めていく姿勢なのです。すると、その時イエスは立ち止まって「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」とあります。私たちもイエスに立ち止まって下さるよう求めて行かねばならないのです。はっとさせるものは何でしょうか。自分をかけて求める叫びでもあります。

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