2016年7月10日 主日礼拝説教要旨
「見よ、生きている」宇野稔牧師
(使徒言行録20章7〜12節)
パウロは二つの願いを抱えていました。ローマとエルサレムに行くことです。この願いは敵地に単身で乗り込むことを意味し、死をも覚悟しなければならなかった程でした。そして出発のためにトロアスに集まるのですが、日曜日の夜彼らとの最後の礼拝が始まります。もう二度と会うことはないだろうと語るパウロの表情から、その決意の深さや厳しさを感じていたのです。
夕方から始まった礼拝は真夜中になっても終わらず、それほど思いのこもった礼拝をしていたということですが、そこにエウディコという青年がいて居眠りをしていて3階の窓に腰掛けていた所からバランスを崩して落ちてしまったのです。皆は驚いてかけ寄り、生死を確かめると打ちどころが悪かったのか死んでいたのです。
ところが、そこにパウロがやって来ます。そしてこう云うのです。「騒ぐな、まだ生きている」。果たしてパウロの言葉通り彼は息を吹き返したのでしょうか、本当に死んで蘇ったのでしょうか。事実は何であったかわかりません。ここではパウロだけが「話した」とあるだけです。しかしながら、ここで大切なのはパウロの言葉「まだ生きている」です。人々が「もう死んでしまった」と思った点は、パウロから見たら「まだ生きている」というのです。
この箇所は「礼拝」について述べています。そして、エウディコという青年は礼拝で私たちの中に何かが起こるということを表しているのです。礼拝とは、死んでいる者が神から「あなたは生きている」との宣言を受ける空間なのです。K.バルトは「祈り手を合わせることは、この世界の無秩序に対する抵抗の始まりである」と云いました。矛盾の中で、矛盾が引き起こす悲惨な悲しみの中で「すでに死んでいる」ような人生を過ごしているかもしれません。しかし、その時、神に向かって手を合わせ祈るそのことが、この世界の矛盾に対する反抗の始まりなのです。この宣言は私たちの中に生きる力と未来への希望を与え、現実の中で「起き上がる」力を与えられるのです。礼拝はいのちの泉です。
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