「一番になって何をする」宇野稔牧師
(マルコによる福音書10章32〜45節)
今朝の聖書に出てくるイエスは実に厳しい顔をしています。弟子たちは「驚き、従う者たちは恐れた」と記されています。イエスはここで3度目の「十字架の予告」をします。十字架への苦難の道が極めて具体的に迫っているということです。イエスの決意は受難の道であり辛い道行です。
さて、その足下で弟子たちは何を感じていたのでしょうか。ヤコブとヨハネが内緒でイエスのもとに来て「あなたが王座に就かれる時は、左大臣右大臣にしてください」と頼んだというのです。師であるイエスが十字架に向かうために決死の歩みをしている足下で、弟子たち皆んが「誰が偉いのか」といい争いをしているのです。
この弟子たちの姿をどう見、どう考えるでしょうか。イエスの荘厳な決意を前にして弟子たちはなんという愚かで、滑稽なことかと考えます。しかし、よく考えると私たちはこの弟子たちの姿を笑うことは出来ません。なぜなら、弟子たちは私たちの日常の生き様そのものだからです。イエスと一緒に生活しながら、イエスのことを全く理解出来ず、自分の事だけしか考えていないのです。
そのような私たちに向かって「偉くなりたいなら、仕える人になりなさい」と言われるのです。同じ話が9章33節でも語られております。この繰り返しの中で、愚かで滑稽な弟子たちに対するイエスの愛を見るのです。このような弟子たちを最後の最後まで見捨てず、諦めず、希望を持ち続けるイエスの深い愛を覚えます。
これがイエスの闘いです。愛を行う闘いです。目的は勝利ではなく、神の御心が行われているかどうかです。愛の目的は相手を立てること、「仕える」ことです。十字架の道は生命を失うという完全な敗北ですが、イエスはこの道を歩んでいます。この世的に考えて勝利かどうかではなく、神の御心が行われてるかどうかなのです。
その歩みこそが本当の勝利だったのです。
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