2016年7月3日 主日礼拝説教要旨
「イエスの名によって」宇野稔牧師
(使徒言行録4章5〜12節)
この箇所はペトロの説教の一部です。ペトロは「あの方は十字架にについて殺されたけれど、復活したイエスの名による」と証しをしたのでした。その内容は、当時の権力者を痛く刺激するものであったので、ただちに彼らは逮捕されたのです。
その翌日イエスを十字架につけた同じメンバーによる詰問がなされます。つまり、自分の命惜しさにイエスを見捨てて逃げた者であるということを承知していたので、「何の権威によって行ったのか」という脅しをかけるのです。尻尾を巻いて退散するだろうと計算していたに違いありません。
ところが、ペトロは逃げるどころかその証人喚問の場でイエスこそは救い主であると説教したのです。並み居る神学者、律法学者、祭司、議員を前にして一介の漁師に過ぎない彼が、「この人による以外に救いはない」と語り、救い主はイエス・キリストのみである、と云ったのです。つまり、この世界において本当の権威を持っているものはイエス以外にないということです。
「救い」とは何でしょうか。悲しみや痛みからの一時的な逃避でしょうか。もちろん人間はある時には慰められる事を必要とします。しかし、慰められることだけが救いの最終の目標でしょうか。そうではありません。イエス・キリストの救いとは、人を変えることです。その一番の証がペトロです。ユダヤ人を恐れて逃げ出した彼が、今は同じユダヤ人を相手に堂々とイエス・キリストを証ししています。恐れなく自由に語り行動しているのです。
イエスは私たちの主です。しかし、権力をもって支配する主ではありません。救いの主なのです。そして愛の主なのです。主イエスの愛を全てに優る権威として受け止める時、私たちは主イエスによって変えられ、どんな不安にも虚無にも優る力を得、恐れなく堂々と自由に生きることが出来るのです。それこそが、主イエス・キリストが私たちにもたらされた救いなのです。
キリストを直視し聴き従うことです。
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