関わりを生きる~平和の実現を祈り~
小﨑眞牧師(同志社女子大)
(ルカによる福音書10章25節~37節)
「共感」は愛が発動する上で重要な要素であろう。しかし、「共感」には相手を支配する暴力性が内在することもある(熊谷晋一朗「痛みの哲学」)。容易に回収できない痛みをわかった風に「自己の物語」へ組み込もうとする姿勢は、相手を支配し、一層、相手に苦痛を与える。ゆえに、共感し得ないことへの痛切な実感こそが、真の共感関係を創出し得るのかもしれない。サマリア人の譬話は真の共感関係を問う。サマリア人は「憐れに(com-passion:共感‐内臓が引き裂かれるような痛みと共に)」思い、旅人を助けた。その後、宿屋(「すべてを受ける」との意)へ出向き、一晩の介抱後、宿屋の主人に2デナリオン(24泊分の宿賃)を託し、その場を離れた。旅人の痛みを回収し得ない現実をサマリア人は自覚していたのかもしれない。一方、宿屋の主人は、痛みの共感より旅人の現実を「すべて受けとめ」、いわゆる「社会的サポート(社会復帰への援助、身体への介助)」(熊谷晋一朗)を実践した。傷ついた旅人を含め、様々な客人たちをもてなす宿屋の主人の姿を容易に想像できる。特定の旅人との「助けた、助けられた」という固定化した共感関係性は打破されたに違いない。宿屋の主人は種々の営業経験を通し、客人たちの多様な要求に忍耐強く対応し得る英知を育んでいたと言えよう。
確かに、他者との共感関係(SNSの「いいね」など)に身を置くことは安心、安全との思いを育むのかもしれません。しかし、自分自身の既存の発想を転換する視座は創出し得ない。安易な共感による熱狂性や集団性(メディアに扇動された「愛」のキャンペーン活動など)と距離を保ち、真の英知(多様性・複雑性への耐性/忍耐力)に根差して他者の到来を迎える時、その只中に新しき希望を創出すべく隣人が立ち現われてくる。「共感し得ないことへの痛切な実感」を懐き、忍耐強く問い続ける時、新しき関わりが創出すると言える(「問いは人を結びつける」エリ・ヴィーゼル)。真の共感と真の英知を求めて共に平和の実現を祈り合う者でありたい。
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