2016年8月8日月曜日

2016年7月24日

2016年7月24日 主日礼拝説教要旨
  「神に喜ばれる関係」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章32〜37節)

 そういう、姿の教会は多くの人に好感をもって受け入れられたとあります。「イエスこそ、キリストだ」と語り、その徴として「分かち合って」いたのです。そして、その姿こそ何よりの証しだったに違いありません。私たちの教会の姿は、如何なものでしょうか。今一度、この箇所と2章44〜47の初代教会が行われていた理想的な信者の生活を報告するまとめのことばを読み、私たちが目指すべき姿と為して行きましょう。 貧しい人は明日を生きることも苦境の中にいました。そういう時代と社会の中にあってイエス・キリストを信じる群れは「全てのものを共有し貧しい者は一人もいなかった」というのです。人が「持てるものを出し合い、必要なものを受け取る」、それこそ人間の理想の社会です。それが初代教会の姿だったのです。強制的でなく洗脳でもなく、イエス・キリストを見上げる中で自然に行われていたというのです。 もう一つの特徴は、「全てを共有し、貧しい者は一人もいなかった」という点です。昔がよい社会であったのではありません。当時のイスラエルは、現代と似通った経済状況、社会状況でありました。ローマ帝国の出現による経済構造の急激な変化の中で貧富の差が拡大していたのです。 その初代教会の姿をルカが伝えているのが、この箇所です。その特徴的なものの一つは「心も思いも一つにしていた」という事です。教会は様々な方が集まります。各々に考えも違うでしょう。でもその中で「心は一つ」というのです。皆が同じことを云うのではなく、「一つ」とは目指しているところが同じであるということでしょう。皆がイエス・キリストを見上げて歩んでいるのです。 ペトロが「この人にこそ救いがある」とイエス・キリストを語り、そこに人々が集ってきたのですから、世間の人々は注目したに違いありません。「イエス教の連中は、救われる、救われるというけれど、その救いとはどのようなものであるか」という目で教会を見たに違いありません。

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