2016年8月5日金曜日

2016年7月17日

2016年7月17日 主日礼拝説教要旨
  「思い切って、大胆に」宇野稔牧師
  (使徒言行録4章23〜31節)

 ペトロとヨハネが釈放されて教会に帰ってきました。心配していた仲間たちにこれまでの顛末を全て話したのです。ということは、「今後イエスの名によって何も語るな」と脅されたことを語ったのです。教会は小さく弱い群れでした。その教会に権力者が脅しをかけているのです。
 私たちなら「迫害が自分たちを襲うことがないように」と祈るのではありませんか。ところが、初代教会は「思い切って大胆に御言葉を語ることが出来ますように」と祈ったのです(29節)。それによってもっと大きな艱難が来るかもしれません。圧倒的力による迫害が起こるでしょう。それなのに今まで以上に「大胆に御言葉を語る」ことを求めて祈ったのです。
 その時、一同の集まっていた場所が揺れ動いたと記されています(31節)。
迫害や困難で動揺する時、私たちは何をすべきなのでしょうか。キリストは神に向かうのです。神を疑うような出来事は再三起こりまます。イエスキリストによって愛することを選択しても、この世界がそれを評価してくれるわけではありません。むしろ、それを嘲笑うような行動や言葉が返ってきます。
 愛に生きるなんて何の意味もないように思えることも起こってきます。でも私たちはどこに立つのでしょうか・・・・・。私たちは思い切って大胆にイエス・キリストの名に立つのです。キリストの十字架、十字架に向いていく愛こそが自分の生きるべきところであるという確信に立つのです。
 この世の力を目の当たりにしながら、見えない神の力に立つという決断をするというのは大変なことです。しかし、その決断力は祈りによって与えられるのです。私たちは「思い切って大胆に御言葉を語ること」「思い切って大胆に御言葉によって生きること」を求めて祈ろうではありませんか。
 神は祈りに応えて下さるのです。「求め、探し、叩き続けよ」というのがイエスが教えて下さった祈りの姿勢です。「思い切って大胆に」語り生きられるように祈っていきましょう。

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