2019年5月6日月曜日

2019年4月28日

2019年4月28日 復活節第2主日礼拝説教要旨
  「イエスは生きておられる」 桝田翔希伝道師
    ルカによる福音書 24:13~35節
 関係性が希薄になってきた現代社会は、無縁社会とも言われるようになりました。そんな折、先日送られてきた教団新報にイースターの説教が一面に載っていました。見るとよくお世話になっている方の原稿でしたので読んでみますと「関係性の喪失は死を意味する」との言葉に考えさせられました。「復活節第二主日」と「労働聖日」の日にあって、私たちは聖書に何を問いかけられているのでしょうか。
 物語はイエスの死に落胆した二人が歩いている所から始まります。そこにイエスが臨みますが、この二人はイエスだと気付きませんでした。イエスは「何を話しているのか」と問います。この二人はイエスがどのような人で、何があったか、を語りますが全てが過去形で語られています。この物語では「イエスは生きておられる」を中心として展開しています。過去のことばかり話していた二人は、イエスに語られ食事を共にする中で、イエスに気づき「時を移さず」にエルサレムへと喜びの中で出発します。今を生きる人へと変えられていったのです。イエスの死を前に多くの人が自分から逃げ去りました。イエスとの関係性を絶ちました。しかしそれでもイエスから歩み寄り、関係性をあらたに作られる姿があります。
 大阪の釜ヶ崎は「寄せ場」と呼ばれ世間から差別的な扱いを未だに受けています。釜ヶ崎には労働者が多く集まる「労働センター」という施設があるのですが、先月の3月31日に移転に伴い閉鎖されることになりました。移転とは言いつつも、そこには行政による労働者排除の思想が感じられました。寄り合う場所として、人々の関係性が守られる場所としてのセンターが閉められようとしたのです。しかし、当日には多くの人が集まり、センターは閉まりませんでした。人と人の関係性という意味での命は無くならなかったのです。
 今日の社会状況の中で、関係性は複雑化し希薄化しています。今まであったものが崩れ、全く新しい関係性のあり方を模索する時なのかもしれません。しかし、人間に力がないということではないのです。イエスが私たちの間に生きておられるのです。私たち一人一人が神とのつながりの中で生き、この世に遣わされています。どんなことがあっても私たちに寄り添って歩まれるイエスがおられるということが、私たちの希望として迫っているのではないでしょうか。

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