2019年5月5日 復活節第3主日礼拝説教要旨
「この子どものように」 桜井希牧師
マルコによる福音書 9:33~37節
イエスは受難予告の度に、弟子たちに「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と教えています。しかし弟子たちはそのことを理解しておらず、自分たちの中で「だれがいちばん偉いかと議論し合っていた」と言います。弟子たちの姿は、当時イエスに敵対していたファリサイ派や律法学者たちの姿でもあります。彼らは律法解釈を根拠に人々を清い者と汚れた者、祝福される者と裁かれる者とに分断し、神の国を独占しようとしました。律法を忠実に守ることを神の国に入る要件とする彼らにとって、憐れむ神、赦す神は必要ありませんでした。一方イエスはそうして罪人とされた者たちと食卓を囲みました。「すべての人の僕になりなさい」という時の僕は食卓の給仕を意味します。食卓は命の糧を分かち合い、生きる喜びを味わう場所です。僕は独占された神の恵みをすべての人に行き渡らせることをその務めとするのです。
イエスは子どもを抱き上げ、「このような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と言います。ユダヤ教社会において子どもは、律法を守るという点から見れば未熟で不完全な者です。子どもは律法を知らないために、この世の汚れや罪に対して無防備だと見なされていました。だからこそ律法の専門家は子供たちが一日でも早く、一つでも多くの律法を知り、守るようにと律法教育に努めるのです。しかしイエスは幼子を教育の対象としてではなく、そのままで受け入れることを求めました。私たちは誰もがこの世に誕生する時、人生の最初に「生かされる」という体験を経ています。幼子はありのままで、見返りを求めない、無償の愛を受けて生きています。そのような愛によって救われた私たちは、今度はその愛をもって人に仕える生き方が求められています。すべての人がありのままに生きることのできる場所をつくっていきたいと思います。
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