2019年6月2日 復活節第7主日礼拝説教要旨
「歩いて七日」 桝田翔希伝道師
マタイによる福音書 28:16~20節
ペンテコステを控えた6月2日から8日は、「アジアエキュメニカル週間」と呼ばれ、様々な状況にあるアジアの教会やキリスト者を、教派を越えて覚える時とされています。京都教区では40年間「ネパール・ワークキャンプ」の活動が現在まで続けられてきました。この活動は、人と人が出会い学びあう「草の根の活動」というあり方が大切にされてきました。私もワークキャンプでネパールを訪れた時、様々な出会いを与えられました。ある時、ネパール語を話すことができる研究者の方と一緒に、いつも滞在していた村に行きました。村のおじいさんはいつも私たちに微笑みかけ、世話をして下さいました。おじいさんと研究者の方が話しておられるのを見ていると、急におじいさんは銃を構えるジェスチャーをしました。何のことかと思い後で聞いてみると、「内戦で娘が殺された、という話だった」との事でした。よく行く村でしたが、私たちが想像できないような歴史を人々が抱えていたことに衝撃を受けました。人と人が出会う、そして異文化の中で出会うということの難しさを感じました。
復活した後、最後にイエスはガリラヤの山で弟子たちに語りかけます。無残に殺されたイエスを前にして「疑う者(17節)」もいましたが、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい(20節)」と山の上で語ります。「命じておいたこと」とは、マタイによる福音書の文脈で考えると、生活での実践的な教えを次々と語った「山上の説教」の場面が思い出されます。みんながいきいきと生きるために、それらを教えて「すべての民」を私の弟子にしなさいと語るのです。
ここで「すべての民」という言葉は、ある研究者によると、当時のギリシャ語用法から「個人個人」という意味が強いのではないか、とも考えられます。「速さ」が求められる情報化社会の中で生きる私たちは、少しの労力で大人数を扇動することも容易な時代に生きています。「すべての民」と言われると、大人数を相手にするように命じられているような気になります。しかし、この後で弟子たちは疑いをもつ者もいながら、自らが歩き語り伝えるものとなりました。それは、「速さ」を重視した扇動ではなく、「個人個人」と出会いながらゆっくりとなされる「草の根」のようなものであったように思います。効率が求められる今日にあって、私たちはどのように出会い、語っているのでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿