2019年7月14日 聖霊降臨節第6主日礼拝説教要旨
「支えあって生きる」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 9:30~37節
わたしが牧した三条教会のある、新潟県三条市の近くに伝えられる民話を紹介いたします。ある貧しい男が毎日花売りに来て、余ると、川に投げ入れて乙姫様にあげていました。ある日、乙姫様に招かれ、お礼に「トホウ」という子どもをもらいます。トホウは汚れているけれど、何でも願い事をかなえてくれます。男は家を、着物を、お金をトホウに出してもらいます。男は大金持ちになります。大金持ちになると、どこにでも付いてくる汚れたトホウが邪魔になります。男がトホウを追い出します。トホウが家を出ると、たちまち家も、着物も、すべてのものがもとどおりになってしまいました。男は途方(トホウ)にくれてしまいました。この民話はトホウに象徴される小さき者を除け者にしていく人を風刺しています。昔の人々は民話をとおして、小さき者に対する配慮を忘れてはならないという大切なことを、子に、孫に伝えていったのです。
イエスさまはご自分の死と復活とを弟子たちに告げられました。しかし弟子たちは理解することができませんでした。弟子たちが望んでいたことは、イエスさまがダビデ王のようにえらくなることであり、そのときには自分たちもえらい者になることであったからです。そうした弟子たちに対して、イエスさまは仕える者になることを教えられ、子どもに象徴される小さき者を大切にするあり方を示されました。
申命記24章5節以下には「人道上の規定」という表題のついた聖書の箇所があります。そこには寄留者・孤児・寡婦に対する配慮することが、神さまの命令として記されています。イスラエルの民は、エジプトの国で奴隷になっていたときに、神さまが救いだしてくださったことを忘れず、寄留者や孤児、寡婦に対しての配慮について、申命記のなかで記しています。日本の民話のトホウの話のように、自分たちが救われて、豊かな生活ができるようになったときに、小さい者たちへの配慮を忘れてはいけないとの思いが、イスラエルの民の中にしっかりと根付いていたのでした。
私たちは強いときもありますし、弱いときもあります。そして私たちはみな弱い部分を抱えて生きています。支えあい、励まし合って、生きていく。だれかがだれかを支配したり、だれかがだれかの上に立つというのではなく、互いに仕え合う。イエスさまが示してくださった愛の道を、私たちも一緒に歩んでいきましょう。
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