2019年6月23日 聖霊降臨節第3主日礼拝説教要旨
「招かれた食卓」 桝田翔希伝道師
ルカによる福音書 14:15~24節
6月23日は沖縄では「慰霊の日」として守られる日です。私事ですが、3月に沖縄研修旅行に参加させていただき、様々なことを見せていただき聞かせていただきました。宮古島での住民の危険を顧みない基地の建設や、辺野古での基地建設、戦争の記憶、など様々なことを見聞きしました。「帰ったらこのことを伝えてね」と私たちを温かく迎えて下さいました。「行こう」と思い研修に参加しましたが、「招かれた」ような感覚を覚えました。
沖縄県知事室の屏風には「万国津梁の鐘」に刻まれている漢文が書かれています。この文章には、沖縄・琉球が近隣の国と平和に外交を行い、懸け橋のような役割を担ってきたことが書かれています。しかし次第に日本により支配されるようになり、第二次世界大戦にあっては本土の捨て石として利用され、現在でも軍事基地が多く存在します。沖縄出身の平良修牧師は「万国の橋渡し役ではなく、常に侵略国家の政治の一端を担わされることになった」と著書の中で語っておられました。本土から見て「小さな島」は支配下に置かれてしまっています。
与えられた聖書箇所は、ファリサイ派の人たちが集まる中でイエスがたとえ話を語り、張り詰めた空気の食事会の様子を伝えています。その中でイエスがたとえ話を語ります。宴に招かれた人たちはそれを断り、打って変わって街の隅々を探して人が集められました。その範囲は小道にまで及びましたが、これはこの世の端っこや周辺という意味も含まれているようです。この箇所の冒頭では、ある人が「神の国で食事をする人は何と幸いなことでしょう」と語ったことがわざわざ記録されています。私たちも自分こそが正しいという風に思ってしまうものですが、この言葉の背景には「自分こそが正しく救いに預かることができる」という思いを読み取ることができます。私たちの社会では、都会ばかりが栄え「田舎」は利用されどんどん貧しくなります。ここには「中心と周辺」の構造があります。ファリサイ派の発言を受けイエスの語った物語で、食卓に招かれたのは小道や町の端っこにいる人たちでありました。
私たちの身の回りには、このたとえ話に登場するようなキツイ生活を余儀なくされる痛みがたくさんあります。しかし、ついつい自分を中心に生きてしまいます。この世の中の端っここそイエスは大切にされたのです。「小さいから」と、ないがしろにしないイエスの姿勢に学ぶものでありたい。
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