2020年2月9日 降誕節第7主日礼拝説教要旨
「汚れつちまつた悲しみに」 小笠原純牧師
ヨハネによる福音書 8:21~36節
中原中也は洗礼を受けたクリスチャンではありませんが、「近代詩人中まれにみる宗教詩人である」(河上徹太郎『わが中原中也』)と言われています。中原中也は、「罪」「悲しみ」「後悔」「孤独」というような、人間の魂の出来事を掘り下げ、素直に詩で表現しました。「汚れつちまつた悲しみに」という言葉など、ちょっと歌謡曲のような感じで、なかなかいいなあと思います。
殺伐とした世の中になり、「汚れてもいいじゃないか」と開き直るような世情のなかにあって、やっぱり「汚れつちまつた悲しみに」というような思いは大切なことだと思います。自分が抱える罪に気づくのは、たましいの気高さというものがあるからでしょう。自分の歩みを振り返って、「汚れつちまつた悲しみに」と、ため息をつく。そして自分の心の中をしっかりと見つめるときに、私たちは自分の罪に出会います。
ユダヤ人たちは、自分たちは律法を守って、天に召されると神の国にいくことができると思っていました。「だって、私たちは律法を守っているんだから」。ユダヤ人たちは、律法を守って正しい生活をしている私たちが、神の国に行けないはずはないと思っていたのです。
イエスさまを信じないユダヤ人と、イエスさまを信じたユダヤ人の違いは、自分の罪に出会うかどうかということでした。「私たちはアブラハムの子孫であり、ユダヤ人は選ばれた民である」と思っている間は、イエスさまに出会うことはありませんでした。「汚れつちまった悲しみ」がないわけです。汚れているのに、汚れていることに気がつかず、自分はきれいだと思っている。自分はアブラハムの子孫だ。神さまにつながる者だと思っている。
自分が罪人であるということに気がついたときに、はじめて本当の意味での神さまとの出会いがあるのです。自分の罪の大きさに気づいたとき、その罪をあがなってくださったイエスさまの十字架の愛の広さに驚き、私たちはただ神さまに頭を垂れる者へと導かれていきます。「人みなを殺してみたき我が心その心我に神を示せり」という中原中也の句の通りであるわけです。赦されない罪が赦され、裁かれなければならない者が救われる。イエスさまが私たちのために十字架についてくださり、私たちの罪を贖ってくださり、私たちは自由な者とされたのです。
私たちは自由にしてくださったイエスさまに感謝しつつ、悔い改めの気持ちをしっかりとこころにとめて、歩んでいきたいと思います。私たちの罪を贖ってくださったイエスさまと共に希望をもって歩んでいきましょう。
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