2020年8月26日水曜日

2020年8月23日

 2020年8月23日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

  「いまだかつてない神の御子」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 7:40-52節

 孔子は「論語」の中で、「信ナクンバ立タズ」と言っています。でもこの「信ナクンバ立タズ」という言葉は、片山智行『孔子と魯迅 中国の偉大な「教育者」』(筑摩選書)によると、「指導者が」ということよりも、「民が」ということのようです。「民、信ナクンバ立タズ」ということです。国は成り立たせているのは、信義をもっているまっとうな民である、私たち一人一人であるということを忘れないでいたいと思います。

 「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」というのは、まあずいぶんな偏見に満ちた言葉です。ファリサイ派の人々は偏見に満ちていて、正常に判断することができなくなっています。しかし世の中に「ガリラヤからは預言者は出ない」という偏見が満ちていても、でも自分で見て考えて、「いや、やっぱりこの人は預言者ではないか」と思う人がいました。ファリサイ派の人々がイエスさまを捕まえようと派遣した下役たちです。下役たちは「今まで、あの人のように話した人はいません」と、はっきりと言うのでした。下役たちは信義をもったまっとうな民であるのです。

 イエスさまは「いまだかつてない神の御子」として、私たちの世に来てくださいました。「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」という人間の差別や偏見を超えて、ガリラヤ出身の「いまだかつてない神の御子」とし、私たちの世に来てくださいました。私たちの差別や偏見に打ち勝つ神さまの御子として、私たちの世に来てくださいました。

 高慢になったり、自分勝手な考えに取りつかれて、人を傷つけてしまうような愚かな私たちですけれども、主イエス・キリストはそうした私たちを愛してくださり、私たちを神さまの愛へと導いてくださいます。謙虚な思いになって、イエスさまを信じて歩んでいきましょう。


2020年8月20日木曜日

2020年8月16日

 2020年8月16日 聖霊降臨節第12主日礼拝説教要旨

   「神さまのみ心を行なう。」 小笠原純牧師

    ヨハネによる福音書 7:1-17節

 公民権運動の母と言われるローザ・パークスは、いろいろな脅迫を受けるなかで、神さまへの信頼こそが自分を支える力であったと言っています。世の中は神さまの御心に反して、神さまが喜ばれないような有り様をすることがあります。人を傷つけたり、人を差別することが公然と行なわれたりすることがあります。そうしたなか、「世の中は神さまの御心に反している。しかしわたしは神さまの御心に従って歩みたい」と静かに祈りつつ歩もうとする人たちが出てきます。

 「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(ヨハネ7章15節)という言葉は、現代において広がりをもってくる聖書の言葉だと思います。「聖書をよく知っている」ということは、いったいどういうことであるのかということです。ただ聖書に書かれてあること、その言葉や考え方を正確によく理解しているということなのか。

 イエスさまは「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」と言われました。イエスさまは神さまの御心を行なうということが大切なのだと言われます。神さまの御心を行なうということと関係なしに、聖書をよく知っているということはあり得ないと言われます。

 神さまの御心に従って歩んでいく。素朴な思いでありますが、やはり大切なことだと思います。自分のしていることが、いったいそれは神さまが喜ばれることであるのか。いろいろなときに、私たちは立ち止まって考えてみます。

 欠けたところも多く、弱さをもつ私たちですから、高慢になったり、卑屈になったりと、神さまにふさわしい歩みでないことをしてしまいます。しかしそれでも、神さまの御心に少しでも近く歩んでいきたいと思います。神さまが喜ばれるような、やさしく誠実な歩みでありたいと思います。


2020年8月13日木曜日

2020年8月9日

 2020年8月9日 聖霊降臨節第11主日礼拝説教要旨

  「私たちのために十字架につき」 小笠原純牧師

   ヨハネによる福音書 6:41-59節

 先日、飼ってきた金魚が調子悪くなりました。それで金魚の病気を治すお薬を買いに行きました。店で金魚の病気を治すお薬をみて、値段をみると1200円でした。「1200円か、たしか金魚600円で買ってきたんだったなあ」と思いました。・・・。「オレ、ひどいやつやなあ」と思いました。わたしが命について、極度の経済合理性を求めることについて反対であるのは、わたし自身がとても合理的な考え方をする人間だからです。そしてその合理性というのは、やはりとても危険なことであると思うので、なおさら気になるのです。

 命は神さまに属することです。命の源は神さまです。人がいのちを作り出すわけではありません。人間が軽々しく踏み込んでいってはいけないところだと、わたしは思います。そして私たちクリスチャンは、イエス・キリストによって永遠の命へと招かれていると信じています。命は神さまに属する事柄なのです。

 人は人生の中で自分の罪に出会います。良き者でありたいと思いながらも、弱さのゆえに思うように生きることができません。自分勝手になったり、自分を蔑んでみたり、人のせいにしてみたり、自分や人を傷つけることによって、自分を保とうとしたりします。自分の弱さに出会い、そしてまさに自分は「死すべき者」であることに気づきます。自分は永遠なる者ではなく、神さまによって命を与えられ、そして神さまによって生かされているものであることに気づかされます。

 神さまは私たちのところに御子イエス・キリストを送ってくださいました。私たちの罪を贖う神の小羊として、イエスさまを私たちのところに送ってくださいました。イエス・キリストの十字架によって、私たちは神さまが備えてくださる永遠のいのちへの営みへと招かれています。

 イエスさまは「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」と言われました。イエスさまの招きに応えて、主イエス・キリストを信じて歩みましょう。


2020年8月5日水曜日

2020年8月2日

2020年8月2日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨
   「平和の君と共に」 小笠原純牧師
    ヨハネによる福音書 6:22-27節
 八月に入りました。8月6日に広島の原爆記念日、8月9日に長崎の原爆記念日を迎えます。八月、私たちの国ではこのとき、平和について考えるときとなっています。1945年8月15日に、私たちの国はアジア・太平洋戦争で敗戦国となりました。それからことしで75年となります。
 最近、手にした本で、庭田杏珠・渡邉英徳(「記憶の解凍」プロジェクト)『AIとカラー化した写真でよみがえる 戦前・戦争』(光文社文庫)というのがあります。白黒の写真を加工して、戦争の時代の写真をカラーの写真にしていくというものです。カラー化されるとその写真は、とても身近な出来事のような感じがしてきます。この本の庭田杏珠は、広島女学院の出身の方だそうです。若い世代の人たちの平和についてのたゆまぬ努力があることを知るときに、私たちもまたクリスチャンとして神さまの平和を求めて歩みたいと思いました。
 イエスさまは「朽ちる食べ物のためではなく、・・・、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言われました。パンは食べたら、なくなってしまう。食べることにだけに一生懸命になってしまったのでは、やはりだめだろう。あなたたちには神さまから託された、もっと大切なことがあるはずだ。神さまはあなたたちに、永遠の命を用意してくださっている。あなたたちは、この世のパンだけでなく、永遠の命にいたる歩みを大切にしてほしい。互いにわかちあい、自分のためだけでなく、隣人のことをこころにとめて生きていく。神さまが喜ばれる生き方をしてほしい。
 パンやお金のことばかりに心を向けていると、大切なことを見失ってしまうと、イエスさまは言われます。パンやお金のことばかりに心を向けていると、命のことを忘れてしまうと、イエスさまは言われます。
 私たちの主イエス・キリストは、私たちの命の源であり、私たちに永遠の命を与えてくださる方です。朽ちるものを求める生き方ではなく、神さまが喜ばれる歩みでありたいと思います。私たちの中にある良き思いを大切にして、平和の君である、イエス・キリストと共に歩んでいきましょう。