2020年8月30日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨
「言葉以上の沈黙」 桝田翔希牧師
ヨハネによる福音書 8:3-11節
平安教会から洛陽教会に転任して、早くも半年が経とうとしています。皆さまはいかがお過ごしでしたでしょうか。この半年を思い返すと、新型コロナウイルスによる生活の変化は大きなものであったと思います。かくなる私も、外出を控え何かにつけて敏感な日々をすごし「ウイルスに怯える人」になっているように思います。外出自粛の中で孤独な時間も増えました。今年の4月に、「B面の岩波新書」というサイトの「パンデミックを生きる指針(藤原辰史)」という記事が話題になりました。ここではウイルスの危機だけではなく、「ウイルスに怯える人」についても言及されていました。ウイルスによる生命の危機を顕著に感じる社会にあって、過剰な言動や差別、分断が起こっています。
ヨハネによる福音書8章では姦通の現場でとらえられた女性が、イエスを中心に多くの人がいた場所に連れてこられます。当時の考えで姦通は宗教的な罪とされていましたが、この行動はイエスを政治的に貶めるためにとられたものでした。おそらくこの場は騒然となったことでしょう。わかりやすい罪を前に、正義が暴走した風景も想像できますし、イエスを殺そうとする人たちも相当な熱気があったことでしょう。しかしイエスはしゃがみ込み沈黙でありました。そして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」とだけ言われ、誰もいなくなりました。この物語でキーパーソンと言える女性は、最後の方でようやく言葉を発しています。このことは、女性が「人格」ではなくイエスを貶め入れる「道具」であり、罪を責めるための「道具」でしかなかったということではないでしょうか。
日々新型コロナの報道を見ながら、怯える生活の中で私たちは数字の向こうに生きる「人格」にどれだけ想像力を持てているでしょうか。「ウイルスに怯える生活」は私たちから多くのものを奪っています。しばらくはこんな生活が続きそうですが、孤独な時間、沈黙の時ともいえるこの期間が、裁きの時ではなく、他人を受け入れるやさしい時であってほしいと願いたいと思います。
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