2020 年 12 月 13 日 待降節第3主日礼拝説教要旨
「主にあって喜ぶ」 小﨑 眞牧師
フィリピの信徒への手紙 4:4-9 節
2020 年度は感染症(COVID-19)拡大の猛威に襲われ、グローバル社会の脆弱さに対峙させられた。地域精神医学の専門家によれば、感染症拡大時に人々が抱く感情には、主に“不安”と“恐怖”があるという。この二つは似て非なるもので、“不安”は対象がはっきりしない際の感情であり、対処が難しいとのこと。一方、“恐怖”は対象が明らかなものを恐れる気持ちであり、対象を「排除」することで“恐怖”は取り除かれるとのこと。結果、私たちは不安をコントロール(制御)するため、不安を恐怖へ転化(=仮想敵の想定)する傾向へ陥るとのことである。関東大震災の時の在日韓国・朝鮮人虐殺などの実例を挙げることができる(太刀川弘和「AERAオンライン限定記事」参照)。
“不安”の対処に関して聖書に学びたく思う。クリスマス物語はマリアやヨセフを始め、人々の“不安”がその中心に据えられている。不安に対峙すべく、聖書日課に従い、パウロの獄中書簡と語られてきたフィリピの信徒の手紙に傾聴する。当時、パウロは過激なユダヤ人やユダ人キリスト者から、獄中同様の不安を強いられていた。その只中で、「主にあって、いつも喜びなさい」(聖書協会共同訳)とフィリピの教会を励ます。「主にあって」とは、「神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らない(フィリピ 3:3)」姿勢を示唆している。換言すれば、己の腹(自身の過去・成果など)を神としない姿勢である(ロマ 16:18)。さらに「広い心(寛容な心:聖書協会共同訳)」へ招いた。「寛容さ」は「キリストの王的主権」とは異なる寛容さであり、自分の正しさや強さからの解放を示唆している。人間が築いた規則や法律が最終の切り札ではなく、適法以上のものがあることへの招きである。
宣教の出来事(救い)は人間が制御し得るものではない。自らの不完全性、不十分さの只中に主が介入してくる。ゆえに主の降誕を前に、自身を明け渡す時(「待つ」という時間)が備えられているのかもしれない。哲学者の鷲田清一氏は「待つ」ことを人間の営みの根底に据え、その姿勢への感受性の意義を提示した。「待つ」、それは自身の時間をはじめ、自分自身を他に明け渡すことである。換言すれば、周囲を自己へ同化するのではなく、そのような「貪欲で自己愛的な自我」を放棄すること。そこに異なる他者への広がりが創出する。「主にあって」こそ、自身の期待と異なる真の希望が現れる。
0 件のコメント:
コメントを投稿