2020年11月29日 待降節第1主日礼拝説教要旨
「さあイエスさまをお迎えする準備をしよう」 小笠原純牧師
マタイによる福音書 24:36ー44節
アドヴェントに入りました。クランツのロウソクにも灯がともり、ああ、もうすぐクリスマスだなあと思います。今年は新型コロナウイルスのために、大勢で集まることができず、クリスマスの行事の持ち方も、従来とは違います。しかしこころを込めて、イエスさまのご降誕をお祝いしたいと思います。
昔、馬屋飾りを買ったとき、羊の足が欠けていたことがありました。壊れているので交換してもらおうと思って除けていたのですが、でも考え直しました。「そう言えば、私たちも欠けたところをもっている。そして欠けたところをイエスさまに傷をいやしてもらったり、欠けたところをおぎなってもらったりして、教会に集まってきている。だから欠けていた羊さんは、私たちだ」。欠けていた羊をよけていたなんて、わたしは自分がちょっと傲慢になっていたのではないかと思いました。
アドヴェントの時期、世の終わり・終末の聖書箇所が読まれます。「アドヴェントとは来臨の意で、主の受肉来臨すなわちクリスマスを迎える心の準備をするとともに再臨の準備の時にもなった」(「キリスト教大事典」、教文館)。アドヴェントは、イエスさまの誕生をお祝いするための準備のときであり、また世の終わりの時にイエスさまがやってこられるのを待ち望むときという意味もあるわけです。
世の終わり・終末は、ノアの洪水のときのように突然、襲ってくる。「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい」と言われています。ぼんやりと生活しているのではなくて、イエスさまがいつ再び来られてもいいように、備えていなさいと言われます。
私たちは欠けたところを持ちつつも、しかし「心して」、イエス・キリストを待ち望みたいと思います。すばらしいことはできないかも知れないし、欠けたところだらけかもしれないですが、それでも救い主イエス・キリストを待ち望むという思いだけは、はっきりと持ちたいと思います。そして何もお献げすることはできないかも知れないけれども、「ずっとあなたを待ち望んでいました」と言える者でありたいと思います。
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