2021年2月4日木曜日

2021年1月31日

 2021年1月31日 降誕節第6主日礼拝説教要旨

   「愛に生きる」 小笠原純牧師

    マタイによる福音書 5:17ー20節

 インターネットのニュースなどを見ていますと、よく「苦言を呈した」とか「持論を展開」とか出てきます。【自民・A氏、審議前の修正協議に苦言 新型コロナ】【(お笑い芸人)Bが政権批判のテレビメディアに苦言「強制的に経済止めるといったら放送止めますか?」】。まあやはり人は「自分が正しい」という思いをもつものです。

 福音書などを読みますと、イエスさまの時代、ファリサイ派、サドカイ派、エッセネ派というようないろいろな派の人々がいたことがわかります。イエスさまのところに「わしが正しい」と思っている人々が、イエスさまに論争をしかけにやってくるわけです。

 【「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである】と、イエスさまは言われました。もともと律法や預言者は人々に神さまの愛を知らせるものであるのに、ファリサイ派の人たちが人を裁くための道具にしてしまっていることに対して、イエスさまは憤りをもっておられました。イエスさま御自身は律法や預言者を大切なものだと思っておられました。そしてそれを大切なものとして守り、もともと律法が持っていた愛の力が満ちあふれるような世の中であってほしいと願っておられました。

 「正しさが先に立つと愛が消える」ということがあります。正しさばっかりが主張されるところでは、愛が消えてしまいます。それは社会運動などでもそうでしょうし、会社でもそうでしょうし、教会のなかでもそうでしょう。使徒パウロは【知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる】(1コリント8章1節)と言いました。【自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならないことをまだ知らないのです】(1コリント8章2節)と言いました。

 私たちは「自分が正しい」という思いに取りつかれたとき、自分が何かを大切なものを落としていないか、周りをよく見回してみなければなりません。もしかしたら私たちの足によって踏みにじられた神さまの愛が落ちているかも知れません。

 「正しさが先に立つと愛が消える」。私たちは愛に生きるということに、こころをとめたいと思います。小さくてもいいから愛に生きる者でありたいと思います。


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