2021年3月12日金曜日

2021年3月7日

 2021年3月7日 受難節第3主日礼拝説教要旨

    「与える幸い」 桜井希牧師

     使徒言行録 20:34ー35節

 使徒言行録の2,4,5章には初期の教会の様子が描かれています。弟子たちは出かけて行って病人を癒したので、多くの人々が病人を連れて集まり、そして病人は一人残らず癒されたと言います(5:16)。また弟子たちは罪人を招いて一緒に食事をし、自分の持ち物や財産を差し出して、必要な人に分け与えました。そのため教会には貧しい者が一人もおらず、飢えることもなかったことが報告されています(2:44-47,4:32-35)。一見すると、幸せそうな教会生活のようにも思えます。けれどもこのような教会の根底には、十字架へと向かうイエスを裏切って逃げ去った弟子たちの姿があるように思うのです。

 イエスを見捨てた彼らは、今度は自分が逮捕されるかもしれないという恐怖におびえながら身を潜ませていた。そしてイエスが処刑されたとのニュースを伝え聞いたとき、彼らは自分の罪深さを責めてやまなかったのではないか。イエスは殺され、見捨てた自分たちはこうして生きている。おそらく弟子たちは、今の自分に何の価値も認められず、これから何を目的としていきていくべきかもわからない、いわば生きながら死んでいるような状態だったのではないでしょうか。

 そのような弟子たちに、イエスはガリラヤに行くように告げています。ガリラヤは彼らが初めてイエスと出会った場所です。おそらく彼らは故郷に帰り、自分たちがイエスの弟子になった時のことを思い出したに違いありません。マタイによる福音書によれば、イエスは弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と命じています。つまり、彼らにはもう一度人間をとる漁師となる人生が与えられる。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」とは、「今度はあなた方の番ですよ」という、イエスからのエールなのではないか思うのです。弟子たちは今度こそ逃げることをやめ、イエスとともに生きていく人生を選びました。イエスの復活は弟子たちの復活に他なりません。彼らにとって教会はイエスとの共同生活の再現であり、生き直すための場ではなかったかと思うのです。

 こうした教会の交わりから私たちはそれぞれの現場へ、家庭や職場、地域社会へと遣わされていきます。私たちに託された使命の一つは、そこで教会と同じような交わりを築いていくことではないでしょうか。今日読んでいただいた聖書箇所はその指針となる言葉だと言えます。「受けるよりは与える方が幸いである」と言われると、私たちはこうあらねばならないと身構えてしまったり、今の自分にはそんなことはできないと思ってしまうこともあります。けれども振り返ってみますと、私たちは自分が辛くて苦しくて助けを求めていた時、孤独の中で打ちひしがれていた時に、寄り添ってくれた人、手を差し伸べてくれた人、共に泣いてくれた人がいたことを思います。そして今度は自分もそのような人でありたいと思わされたのではないでしょうか。与える幸せは尽きることがありません。もしも与えることによって人生が行き詰まったり、生きづらくなるようなことになれば、神は教会の交わりを通して必要なものを与えてくださる。そのような信仰をもってこれからも歩んで参りましょう。


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