2021年5月2日 復活節第5主日礼拝説教要旨
「イエスの名によって願うこと」 小笠原純牧師
ヨハネによる福音書 14:1ー11節
17世紀の作家シャルル=ペローの童話に、「おろかな願い」『ぺロー童話集』(天沢退二郎訳、岩波書店)というのがあります。貧しいきこりにジュピターが、「おまえが抱く最初の三つの願いを、完全に、聞き入れてやる」と言います。この民話を聞いた人はみんな、わたしなら何を願うだろうというふうに考えるだろうと思います。でも現実ではなく、民話の話だからなあと思います。しかしイエスさまは、私たちに「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14章13節)と言っておられます。
今日の聖書の箇所はイエスさまの訣別説教です。この聖書の箇所は、教義的にみればイエス・キリストの十字架と復活、そして再臨ということが書かれてあります。しかし死を前にした人の言葉として読んだときに、ひとつのユーモアのような気がします。「わたしは死んでしまうけど、さきに天国にいって、あなたたちの場所をとっといてあげるから、心配するな。そして場所をとったらまた帰ってくるから、一緒に天国で楽しくしよう」。イエスさまもまた弟子たちに自分の死をユーモアで語ることによって、弟子たちの不安を静めようとされました。
そしてイエスさまは言われました。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。みなさんならこのイエスさまのユーモアに対してどう応えられますか。わたしならこう答えます。「イエスさま、それなら、上等な焼肉を食べさせてください」とか言います。するとイエスさまは「いいよ、焼肉をたべたあと、ケーキもつけてあげる」と言われるのではないかと思います。
しかしそうしたユーモアの会話の中にあって、私たちはほんとうにイエス・キリストが望んでおられたことを知っているのです。イエス・キリストの名によって願うということは、自分勝手な願いをするのではないということを、私たちは知っています。イエス・キリストの名によって願うということは、イエスさまが望んでおられた願いを受け継いで、私たちが歩んでいくということです。しかしその歩みは悲愴感や先行きの見えない絶望の歩みではなく、ユーモアをもった希望に満ちた歩みであるのです。
私たちはイエス・キリストが願われたように、「御国がきますように」という祈りを持ちながら、ユーモアと希望をもって歩んでいきたいと思います。
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