2021年5月1日土曜日

2021年4月25日

 2021年4月25日 復活節第4主日礼拝説教要旨

    「死を越えてわたしの隣にいてくれる方」 小笠原純牧師

     ヨハネによる福音書 11:17ー27節

 北条裕子の『美しい顔』は東日本大震災を背景にして書かれた小説です。主人公は高校生の女性で、母親の死を受け入れることができず、自分をごまかして生きています。そうした主人公を、小さい頃から彼女を知っている近所のおばさんが、おそろしいくらいに彼女を激しく諭すのです。「元にはもどれないの!」「あなた自身が、ひたすら悲しんで苦しんで怒って、そのあとで、だんだんと納得するしかないの。代わりなんて何もない。誰も、何も、あなたの代わりにはならない」。

 ラザロの死に際して、姉妹のマルタはイエスさまにラザロを生き返らせてほしいと願います。イエスさまが「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言います。「そんな教義的なことは知っているんだ」というわけです。「そんなことを言っているんじゃないんだ。わたしの兄ラザロが死んだのだ。わたしのこの悲しみ、この怒り、この喪失感をどうにかしてほしい。わたしの兄を生き返らせてほしい」。そのようなマルタに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」というように信仰の本質を問うのです。

 マルタはイエスさまに兄ラザロを生き返らせてほしいと願います。そして結果的には、イエスさまはラザロを生き返らせます。しかしたとえラザロが生き返ったとしても、ラザロはいつかは天に召されます。そのあいだ、人生ですから、いろいろなことが起こります。つらいこと、悲しいこと、それは人間の人生のなかで避けようのないものです。そして私たちは信仰の本質的な問いに向き合うことになります。悲しみ、苦しみ、嘆きの中で、私たちを救ってくださる方がだれであるのかという問いです。どんなときもわたしの隣にいて、わたしを支え導いてくださる方はだれであるのかという問いです。死を越えてわたしの隣にいてくださる方はだれであるのかという問いです。

 すべてのことをイエスさまにお委ねして歩みましょう。イエスさまはいつも私たちを支え、導いてくださいます。


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