2022年2月17日木曜日

2022年2月13日

 2022年2月13日 降誕節第9主日礼拝説教要旨

  「種を蒔く」 横田明典牧師

    マルコによる福音書 4:1-9節

 種を蒔く人の譬えの解説が13節以降にあります。種というのは神の言葉で、落ちた場所とは御言葉を聞く人を取り巻く状況を表していると解説されています。したがって「神様の御言葉に対してサタンや迫害や誘惑に負けずに、御言葉を受け入れるものになろう」というような倫理的な勧めとして、この譬えが説明されています。このためこの箇所を読む人は「自分は良い土地だろうか」、「誘惑に負けて実を結べずにいるのではないか」と自分自身のことを考えさせられることも多いでしょう。

 確かに蒔かれた側の人間の状態を戒めることも大切なことかと思いますが、その前に遡って、種を蒔く側のこと、その種そのものについて考えてみたいと思います。

 この種を蒔く人は、ずいぶん大胆な、いい加減な、効率の悪い種の蒔き方をしています。実りを期待して種を蒔くのですから、良い土地に蒔くべきなのにそうではありません。道端や石だらけの土地や茨の中など、お構いなしに種を蒔いています。何故こんないい加減な蒔き方をしているのでしょうか。

 種を蒔く人、これは神様でありイエス・キリストであり、また弟子たちであったと言えます。私たちがまず感謝したいのは、そういう大胆な種の蒔き方をしてくださる神様だった、ということです。イエス・キリストによって蒔かれる種は土地を選びません。どんな土地であろうと無差別にその種が蒔かれます。ユダヤ教の文献によると、パレスチナ地方の農業では、種を蒔いてからその土地を耕す方法もあったようです。ということは、無差別に蒔かれた種ですが、その土地が後から耕される可能性は十分にあったということです。つまりどんな土地であろうとお構いなしに種を蒔くのは「どんな土地であろうと、その全ての土地で種が芽を出し実を結ぶ可能性がある」ということです。神様は「耕された相応しい良い土地」だけに種を蒔くのではなく「全ての土地が耕され、実り多いものになるように」と、種を蒔いておられます。

 しかもその種は30倍、60倍、100倍にもなる力を持った種です。神様の御言葉はそれほど大きな力を持っているのです。その種の力を信じればどんな土地であろうと、種を蒔くことができるのです。

 もう一つ考えたいのが、この譬えは、種を蒔く側に向けて語られたのではないか、ということです。

 現実の問題として、なかなか伝道や宣教の具体的な成果というものが見えていない状況があったとも考えられます。種を蒔くのは確かに自分たちに与えられた役割ですが、しかし蒔かれた後のことは、神様任せにせざるを得ないのであって、自分たちに責任があるのではない、そのようなことを伝えたかったのではないでしょうか。私たちも神様と同じように、人を選んで種を蒔くのではなく、ただ種を蒔く。それが大切なのだと思います。種の力に信頼して、私たちも大胆に絶えず種蒔く人でありたいと願います。



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