2022年3月10日木曜日

2022年3月6日

 2022年3月6日 受難節第1主日礼拝説教要旨

 「私たちを救ってくださるイエスさま」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 1:12-15節

 スマートフォンを多くの人がもつようになり、ビデオ電話ができるようになりました。しかしビデオ電話はあまり普及しません。音声だけの電話のほうが、人にとってはなんとなく都合が良いからです。音声だけの電話は、「聞いてくれている」ということが前提で、相手が話をしてくれているわけです。ビデオ電話になると、明らかに聞いていない顔の自分が映ってしまうわけです。ひとはいいかげんであるという前提を互いに受け入れ合って、電話は使われています。私たちはみんないろいろな弱さを抱えていきています。いつもいつも真剣勝負をされると、それはちょっとむつかしいことがあるわけです。人はやはり頼りないところがあるわけです。自分勝手であったり、誘惑に陥る弱さがありますし、思わぬことでつまずいてしまうことがあります。「どうしてこんな誘惑に陥ってしまったのだろう」と嘆くことがあります。

 イエスさまが神の国の福音を宣べ伝えるまえに、サタンから誘惑を受けます。それはすべての人がこの世にあって、いろいろな誘惑を受けて、揺れ動きながら生きているからです。神さまの御子としてこの世に来られ、人となられたイエスさまも、私たちと同じように誘惑を受けられるのです。そして誘惑に打ち勝たれます。

 「時は満ち、神の国は近づいた」というイエスさまの言葉は、一般的には、イエスさまが伝道・宣教を始められるときの言葉です。しかしこの聖書の箇所を受難節のときによむときに、この「時は満ち」の時とはいったいいつのことなのかということに、私たちは心を向けて読むのです。それはイエス・キリストが十字架につけられ、私たちの罪をあがなってくださる、その「時」なのです。

 多くの人は弱さを抱えていきています。良き人として生きようと思っても、そのようにし続けることができず、思いやりのない自分勝手なことをしてしまうこともあります。イエスさまがゲッセマネで祈っておられたとき、弟子たちは誘惑に負けて、眠り込んでしまいます。

 そうした弱く、なさけない私たちのために、主イエス・キリストは十字架についてくださいました。私たちの罪をあがない、そして私たちを神さまのもとに連れ帰ってくださいます。イエスさまは私たちを愛してくださり、私たちを救ってくださいます。レント・受難節のとき、自らのこころの弱さをしっかりと見つめながら、歩みたいと思います。そして私たちがどんなに弱くとも、力強い御手でもって、イエスさまが私たちを守り、導いてくださっていることに、こころから感謝をしたいと思います。 


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