2022年5月19日木曜日

 2022年5月15日 復活節第5主日礼拝説教要旨

 「たゆたえども沈まず」 川江友二牧師

   列王記上 22:1-16節

 子どもも大人も、間違っているかもしれないと感づいていながら、それを止めることもできず、突き進んでしまうことがある。その最たる例が、ウクライナを侵攻するプーチン大統領の姿ではないか。これは良心の問題とも言える。良心は英語で「コンシャンス」。共にという「コン」と科学の「サイエンス」で、「共に知る」との意味がある。プーチン氏の悲劇は、共に知るための、仲間の声、自分自身の奥深くからの問い、そして神からの声を無視している点にある。しかし、そこに私たちに共通する人間の破れ、罪の姿を見る。

 今日の聖書箇所には、そんな人間の弱さをさらけ出したイスラエルの王アハブが登場する。この時、アハブ王と南ユダ王国の王ヨシャファトは領地を取り戻すべく、共同戦線を張ろうと相談していた。2人の王は預言者に神の言葉を求めた。預言者は国王が神の御心に背を向けている時、これを指摘し、正すことが本来の使命である。しかし、国王お抱えの預言者たちは、神の真実の言葉を語ろうとせず、国王が喜びそうなことを選んで語った。その後、預言者ミカヤが登場するのだが、彼が語ったのは、他の預言者たちと同内容だった。「攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」と。これに対するアハブ王の反応が興味深い。アハブ王は「真実を語っていない」と腹を立てたのだ。彼は自分の間違いと日頃のミカヤの正しさをどこかで理解していたのだろう。だから真実でないことを告げられた事が耐えられなかった。だが、真実を告げられることにも、耐えられなかった。そうしてアハブ王は、神の御心や自らの過ちに気づきながら、その声を振り払うように、戦争を始めてしまう。

 このアハブ王のとった姿勢に私たち自身の姿が浮かび上がってくる。そして、神の御心に背を向けてでも自分の思い通りに生きることを求め、亡びに向かって邁進する今の世界の姿を見る思いがする。

 かつて、この人間の弱さ、罪故に、イエスさまは十字架にかかられた。しかし同時に、終わりへと向かう私たちに対して、かつても今もイエスさまは復活し、共にいてくださる。復活とは、ギリシア語で「~に抗い立ち上がる」と言う意味がある。イエスさまは亡びや終わりへと向かわせる力からあなたを復活させる、立ち上がらせると声をかけてくださっているのだ。その罪の自覚と新しい命へと導かれる過程から、本当の意味での「良心」は生まれてくるのだと思う。

 私たちの目に映る現実には、ウクライナでの惨状をはじめ、良心の欠如、亡びや終わりを感じさせるものが多くある。しかし、その現実に抗い、立ち上がり、私たちのもとを何度でも訪ねてくださる方がいる。この神の赦しに支えられ、私たちは共に神の御心に聴き続けたいと思う。そして、目には見えない主に希望を与えられて、「たゆたえども沈まず」、今の現実に抗して主と共に立ち上がり、キリスト者として今できることを良心をもって、誠実になして生きたいと願う。


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