2022年8月7日 聖霊降臨節第10主日礼拝説教要旨
「神さまの平和が来ますように。」 小笠原純牧師
マルコによる福音書 9:33-41節
今日は私たちが属しています日本基督教団が定めた「平和聖日」です。「神さまの平和が来ますように」と祈りを合わせたいと思います。
イエスさまのお弟子さんたちは、自分たちのなかで一番偉いのはだれかというような話をしたり、イエスさまの弟子でもないのに、弟子のように振る舞う人がいてはだめだ、私たちが正統なイエスさまの弟子なのだというようなことを考えていて、なんとなく高慢になってしまっていました。
社会学者の岸政彦は『はじめての沖縄』という本のなかで、若いとき沖縄に出会って、自分は「沖縄病」にかかっていたということを記しています。何かに夢中になると、それに取りつかれたようになることがあります。沖縄に行って、沖縄に取りつかれて、沖縄のことばかりを考えているというような感じが、「沖縄病」ということでしょう。わたしは自分自身、ちょっと冷めたところがありますから、そんなに何かに夢中になるということもあまりないので、「沖縄病」というのはうらやましくもあります。ただ「病」とついているし、岸政彦が「そうとう気持ち悪い奴だったと思う」と言っていますから、悪い面もあるわけです。それは「沖縄のことはわたしがよく知っている」「自分は沖縄の人たちの気持ちがわかっている」という過剰な気持ちになることなのだろうと思います。
イエスさまは自分たちが正統なイエスさまの弟子なのだと高慢になっている弟子たちを諭され、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」と言われました。自分はこのことがよくわかっている、自分が正しいのだと思い込むのではなく、こころを開いて、互いに力を合わせるということを考えなさい。大切なことはあなたが正しいということではなくて、困っている人や悩んでいる人が安心できるということなのだと、イエスさまは弟子たちに言われました。
私たちは、平和を求めつつ対立したり、良き社会になることを求めつつ争っているというようなことをしてしまいます。いつのまにか「平和」さえも、自分をえらく見せるための道具にしてしまい、自分の正しさを主張するようなことになってしまうときがあります。
謙虚な思いになって、「神さまの平和が来ますように」と祈りたいと思います。自分をえらく見せようとしたり、力でもって人をやりこめようとするようなあり方ではなく、神さまの愛を届けていくことに喜びを感じる生き方ができますようにと祈りたいと思います。
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