2022年9月16日金曜日

2022年9月11日

 2022年9月11日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

 「轍(わだち)のように」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 12:28-34節

 大漢和辞典を編纂した諸橋轍次の名前の「轍」は「わだち」という意味です。父親の安平は、中国北宋の文豪蘇轍にあやかって、息子の名前を轍次としました。だれも「これはすばらしいわだちですねえ。りっぱなわだちですねえ」と誉める人はいません。しかしいい働きをしています。そのように謙虚な歩みをしてほしいという思いを諸橋轍次の父安平はもっていました。

 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」という律法学者の問いに対して、イエスさまは大切なことは、「神さまを愛すること」、そして「隣人を愛すること」だと言われました。イエスさまは二つの掟が一つだと言われます。イエスさまの時代のファリサイ派や律法学者たちは、どちらかというと一生懸命に神さまを愛していたわけです。そして神さまを愛するがゆえに、人を裁いていました。神さまが与えてくださった律法を守ることができない人間は罪人だから裁かなければならないと思っていました。神さまを愛しすぎると、人を裁きたくなります。いまの世の中でも宗教的な原理主義者は神さまのゆえに人を裁こうとします。しかしイエスさまは罪人を愛され、そして神さまから愛されている人として、その人の隣人になられました。神を愛し、隣人を愛するということは決して切り離すことができないことなのです。

 信じて生きるということは、神さまの前に謙虚な思いになって生きるということです。私たちは自分の名誉であるとか地位であるとか、財産であるとか、この世で生活をしていると、そうしたもののことが気になることがあります。神さまの思いではなく、自分の思いが先に立ってしまうということもあります。自分が誉められたり、たたえられたりすることに気が向いてしまうこともあります。そして神さまの前に謙虚な思いであることを忘れてしまうことがあります。

 復活のイエス・キリストと出会った弟子たちは、イエスさまが歩まれた道を歩み始めます。それはあたかもイエスさまがその生涯を通して作られた「わだち」を歩んでいくかのようでした。イエスさまが残してくださった、神さまへと続くわだちを、弟子たちはそれることなく歩んでいったのでした。イエスさまがつくられたわだちは、地位や名誉に続く道ではありません。それは人から見れば、愚かな道であるかもしれません。しかしその道は、神さまへと向かう確かな道であるのです。私たちもまた、そのわだちを歩んでいきます。人は見てくれていなくても、神さまは見て下さっています。謙虚に自分らしく生きましょう。神さまは私たちの歩みを祝福してくださっています。


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