2022年9月3日土曜日

2022年8月28日

 2022年8月28日 聖霊降臨節第13主日礼拝説教要旨

 「自分の十字架を背負って」 桜井希牧師

   マルコによる福音書 8:27-35節

 最初の受難予告でイエスは弟子たちに、自分が多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちによって殺され、三日の後に復活することを告げます。イエスは最後まで支配される人たち、不当な苦しみを受け、無念のうちに死んでいく人たち、言わば殺される側の人々と共に生きる道を選んだのでした。けれども弟子たちは、イエスが逮捕されるや否や、彼を見捨てて逃げ去りました。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と言ったペトロも、大祭司の屋敷の中庭で「この人は、あの人たちの仲間です」と言われた時、彼は繰り返し「そんな人は知らない」と言ってその場から逃げ出しました。その姿は、私自身のこれまでの罪の数々を、どれほど人を裏切り、見殺しにしてきたかをいやおうなく思い出させます。

 受難物語は私たち自身の罪があらわにし、忘れようとしていたその罪を思い起こさせます。その度に私たちは悔い改めへと導かれながら、なおその罪と共に生きていくことが求められているように思います。罪を忘れることは神を忘れることになるのではないか。そうではなく私たちは、自分の弱さを自覚しているからこそ相手の弱さを受け入れることができ、自分が苦しいからこそ相手の苦しみに共感できるのではないでしょうか。罪は忘れるべきものではなく、自分と他者を和解させ、新しい出会いと生き方を示してくれる。これが赦されて生きるということではないかと思うのです。

 イエスはペトロに対する叱責に続けて、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言います。それは「今度はあなたの番なのだ」という励ましの言葉のように、私には思えます。イエスが生きたように、今度はあなたが生きていく番なのだと。そのようにして歩み出す時、自分の罪深さや弱さは相手を思いやる優しさとなり、相手の苦しみを共感する力へと変えられていく。そして、そのように生きることが自分にとって担うことのできる使命だと、私は信じたいのです。たとえその行く先が十字架の死であったとしても、「大丈夫、わたしはここにいる」と言って共に歩むイエスを信じて、これからも生きていきたいと思います。


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