2022年10月8日土曜日

2022年10月2日

 2022年10月2日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

 「涙の食事〜裏切る人と共に」 小笠原純牧師

   マルコによる福音書 14:10-25 節


 『現代ウクライナ短編集』(群像社)のなかに、「未亡人」(ワシーリ・ハーボル著)という短編小説があります。村長が若い未亡人のところを訪ねていくと、そこにいたのは自分の息子だったという、なんともなさけない話です。どの国に住んでいる人たちも、色々なさけないことを抱えながら生きているのだと思いました。

 イエスさまは食事の際に、弟子たちが驚くような話を始めます。こうしていま食事をしているあなたたちの中のひとりが、わたしを裏切ろうとしている。弟子たちは驚きます。そして「まさかわたしのことでは」と口々に言い始めます。イエスさまは「いま、わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がわたしを裏切るのだ」。そして「わたしを裏切るその人は不幸だ」と言われました。

 「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」と言えば、すっきりして言いような気がするわけです。しかしイエスさまがイスカリオテのユダを名指しで、「イスカリオテのユダ、あなたがわたしを裏切ろうとしている」とは言われませんでした。イスカリオテのユダに対するイエスさまの愛があるわけです。

 最後の晩餐は、涙の食事であるのです。イエスさまは裏切る者とともに食事をされ、そして裏切る者のために嘆かれ、そして裏切る者のために祈られたのです。最後の晩餐は聖餐式のひな形であると言われます。そういう意味では聖餐式というのは、私たちがイエスさまを裏切る者であり、罪深い者であり、いい加減な者であることを思い起こす儀式であるということです。そしてイエスさまを裏切る罪深い私たちが、イエスさまの憐れみの中に生かされていることを、感謝をもって受けとめるということです。

 聖餐に預かるということは、クリスチャンになった特権として聖餐に預かるということではありません。私たちがイエスさまの憐れみの中に生かされているということを受けとめるということです。私たちは依然として、こころもとない者であり、弱くいい加減な者です。神さまの憐れみなしには生きていくことのできない者です。

 しかしそうした私たちは憐れみ、導いてくださる神さまが、私たちにはおられます。神さまの深い愛に感謝して、神さまの民として、新しい一週間の歩みをはじめたいと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿