2022年12月16日金曜日

2022年12月11日

 2022年12月11日 待降節第3主日礼拝説教要旨

 「さみしさに寄り添われる神」小笠原純牧師

  ルカによる福音書 1:5-25節

 もう一度オートバイに乗ってみたいと思う気持ちと、もう危ないので止めたほうが良いという気持ちがあります。そして乗れないと思うと、ちょっと切ないなあという思いがあります。みなさんも、そうしたことがあるのではないでしょうか。登山に行くのが趣味だったけど、やっぱりもうあぶない感じがして止めたという方もおられるかも知れません。なんか自分の中では納得しているのだけれども、なんかちょっとさみしいなあと思えることがあります。

 ザカリアとエリサベトの間にこどもがいないということは、それはもう二人にとっては納得しているけれども、さみしいと思えることでした。ザカリアもエリサベトももう年をとっていますし、もうこのことについては、ある意味、心の整理をしていたのです。ザカリアもエリサベトも神さまの前に正しい人として、周りの人々から信頼を受けて生きています。「ザカリア、あの人はとても立派な人ですよ。そしてエリサベトもとっても立派な人」。そのようにみんなから言われて生きています。子どもを授かることはなかったけれども、神さまの前に良い人生を送ることができました。でもふと思うと、こどもを授からなかったことは、さみしい気がするのです。そのことはもう納得しているけれども、さみしい気がするのです。

 ザカリアとエリサベトの話を読むとき、私たちはザカリアとエリサベトの願いが叶って、ほんとうによかったと思います。叶えられることのない願いを抱えながら、ザカリアとエリサベトは生きてきました。もう叶うことはないだろうと思っていた願いが叶えられたのです。私たちもまた叶えられることはないだろうと思える願いをもって生きています。なんかちょっとさみしいという思いをもって生きています。だからザカリアとエリサベトの願いが叶えられて、ほんとうによかったねと思うのです。そうした思いをもつ人々が、このザカリアとエリサベトの物語を語り伝えてきたのだと思います。わたしの願いは叶えられるかどうかはわからないけれども、ザカリアとエリサベトの願いが叶えられてよかったねと思うのです。

 ザカリアとエリサベトが子どもを授かるという話は、さみしさに寄り添ってくださる神さまがおられるということを、私たちに教えてくれます。私たちの神さまは、私たちのさみしさに寄り添ってくださる方なのです。こころの底に押し込めている、だれにも見せることのない私たちのさみしさに、神さまは寄り添ってくださり、そして私たちに平安を与えてくださるのです。


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