2023年6月10日土曜日

2023年6月4日

 2023 年 6 月 4 日 聖霊降臨節第2主日礼拝説教要旨

「百花のさきがけ」 高田太牧師

  使徒言行録 9:3-20 節

 2015 年から同志社教会と梅花女子大学で働いています。以来、この両者の繋がりが、わたし達、会衆主義の伝統に連なる教会のための大切な遺産であると気付かされ続けて来て、これによって信仰を養われています。

 同志社の創立者、新島襄が死の間際に詠んだ有名な漢詩があります。「庭上の一寒梅、笑うて風雪を侵して開く。争わずまたつとめず、自ずから占む百花の魁」。この 2 年ほど前、1887 年 4 月 1 日に新島は月ヶ瀬に出かけています。「梅花の消息を問わんと欲し、今朝、俄に思い立って木津に来たる」というのです。なぜ梅も終わりのこの時期なのでしょうか。

 1878 年、大阪最初の女学校として梅花女学校が生まれました。その時代、女子の教育は必要と思われておらず、キリスト教への風も優しいものではありませんでした。それでも風雪を侵して、春を告げるべく花は開きました。この梅花学園の創立者は、浪花公会牧師の澤山保羅[ぽうろ]です。新島同様、アメリカに留学しましたが、英語の習得に苦労し、病に倒れることしばしばにして、私費留学で生活も貧しかったのでした。留学の 3 年目、公費留学扱いにしてもらえないかという願い出も却下され、目の前は真っ暗だったでしょう。ダマスコへの道で視力を失ったサウロの姿がこれに重なります。

 暗闇の中のサウロを訪ねたのはアナニアでしたが、澤山のアナニアは宣教師レビットでした。目からうろこが落ちました。なぜ自分がアメリカにいるのか、立身出世のためだと思えば暗闇であったその同じ状況が、まさに日本へのキリスト教伝道のための完全な備えであったと気付きました。澤山はパウロの名を自らのものとし、パウロのごとくに自給の道を行きました。しかしその精神が、京都と大阪の対立を生み出すこともありました。

 澤山の永眠は 1887 年 3 月 27 日、29 日に告別説教をしたのは新島でした。新島の月ヶ瀬行は葬儀の三日後です。「梅花の消息を尋ね」に行ったのです。まさに梅の終わりの時、月ヶ瀬の梅林に新島は澤山の姿を、そして梅花女学校の姿を重ねて祈ったのでしょう。その祈りこそが美しい漢詩を生み出したのではないでしょうか。

 百花のさきがけとして大阪に開いた梅花の自給の精神は、「必要なものは神与えたもう」の信仰です。会堂に関する幻を抱いておられるこの時に、わたしどもの教会の原点にあるこの精神をお伝えできたらと思いました。


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