2023年9月29日金曜日

2023年9月24日

 2023年9月24日 聖霊降臨節第18主日礼拝説教要旨

「〈怒り〉を力に」 堀江有里牧師

  マルコによる福音書 11: 15-19節

 いまでは治療方法や薬が開発されましたが、ほんの数十年前まで「死に至る病」であったエイズ。性感染も経路であったため、多くの偏見と差別をもたらしました。米国の市民運動に「アクトアップ」(力を解放するエイズ連合)の記録映画『怒りを力に』に収められた「教会を止めろ」と名付けられた抗議行動(1989年12月)は、ニューヨークの聖パトリック大聖堂での印象深いコントラストを描き出しています。一方では礼拝堂の通路になだれこみ、無言のうちに死体を模したダイ・インで抗議する人びと。これは仲間たちの命が奪われてゆく現実を示す行為でした。他方で粛々と進むミサ。気にもかけず聖書が朗読され、会衆は聖歌をうたう。そして唐突に繰り返される「わたしたちを殺すのをやめろ!」という抗議行動参加者の叫びは、死にゆく人びとを放置し、無関心のなかで儀式を守りつづける会衆への怒りと嘆きでした。この行動は、HIV感染予防の性教育を敵視する教会への、そして「エイズは同性愛者への天罰だ」と主張してやまない人びとの思想を支えるキリスト教への抗議でした。

 本日の聖書箇所は「宮潔め」として解釈されてきました。神殿に到着したイエスは両替人や鳩を売る人たちの場をひっくり返します。周囲は騒然としたはずです。イエスは平穏な神殿を取り戻したかったのでしょうか。しかし、この人たちが追い出されてしまったら神殿は機能しません。供物も献金もできないからです。だとしたら、イエスがおこなったのは神殿のあり方そのものの否定、腐敗した価値観への根源的な問いであったはずです。だからこそ、イエス殺害の計画がもちあがったわけです。

 引用されているイザヤ書は「すべての国民の祈りの家」と翻訳されています。もとのイザヤ書では単数で書かれていて、「イスラエルの民」が意識されているわけですが、イエスはこの聖書の箇所を複数形で引用したことになっています。つまり、さまざまに境界線によって分断されている人びとを分け隔てなく一緒にいられる場として、神殿をとらえているわけです。

 まさにイエスが起こしたことは古代ユダヤ世界のなかでのノイズであり、秩序を乱す行為です。宗教の権威によってもたらされる人びとの分断への問いかけであったのではないでしょうか。イエスの起こしたノイズを、そしてその根底にある〈怒り〉の出来事をわたしたちはどのように受け止めることができるのか、考えつつ、歩み続けたいと思います。に出会う歩みへと招かれたい。


2023年9月22日金曜日

2023年9月17日

 2023年9月17日 聖霊降臨節第17主日礼拝説教要旨

「抱きしめられたい夜もある」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 15:11-32節

 30、40代の女性に人気のあるコラムニストのジェーン・スーは、女性はみな自分のなかに「小さな女の子」をもっているのだと言います。そうしたことはわたしにも思いあたります。ただただ切なかったり、悔しかったり、いやだったりする気持ちを、大人であるわたしは表面上は隠すわけですが、でもわたしの中の「小さな男の子」は、「いやだ。悲しい。くやしい」と泣き声をあげるのです。

 「父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」。レンブラントの絵に、「放蕩息子の帰還」という絵がありますが、この聖書の箇所が描かれています。ひざを折って悔い改めている放蕩息子の肩に、お父さんが手を置いて、憐れみ深く抱きしめている絵です。

 傷つき、疲れ果てて、倒れそうなとき、だれしも「抱きしめられたい」と思います。放蕩息子はお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。そしてまた放蕩息子のお兄さんも、お父さんに抱きしめてもらいたかったのです。父のもとを離れず、父のそばにいて、一生懸命に父のもとで働いていた。父の言いつけをすべて守るような人だったので、父もあまり気にしていなかったわけですが、放蕩息子のお兄さんはお父さんに抱きしめてもらいたかったのです。しかし放蕩息子のお兄さんは、そのことをお父さんに言うことができず、逆にお父さんに対して、「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」と叫ぶのです。小さな男の子のように。

 人はだれしも「抱きしめられたい夜がある」のです。放蕩息子もそうですし、また放蕩息子のお兄さんもそうなのです。そして私たちにも抱きしめられたい夜があるのです。人に傷つけられたり、また人を傷つけてしまったり。人に辛くあたったり、人から辛くあたられたり。最愛の人を天に送ったり。どうしようもなくさみしくて、悲しくて、だれかに抱きしめられたいと思う夜があるのです。

 そして私たちには、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられるのです。身勝手な放蕩息子を許して、抱きしめたように、私たちの悲しみや辛さに寄り添ってくださり、私たちを抱きしめてくださる神さまがおられます。悲しみの中にある私たち、さみしさの中にある私たちの傍らにいてくださり、私たちを慰め、支えてくださる神さまがおられます。安心して、神さまの祝福のなか歩んでいきましょう。


2023年9月15日金曜日

2023年9月10日

 2023年9月10日 聖霊降臨節第16主日礼拝説教要旨

「だめな人だけど、でもいいよそれで」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:25-35節

 アブサロムはダビデ王の子どもですが、ダビデ王に反旗をひるがえし、ダビデ王を殺そうとしました。アブサロムは結局、ダビデ王の兵に負けて、逃げる途中に木に宙吊りになり、ダビデ王の部下のヨアブによって殺されます。アブサロムが死んだということを聞いて、ダビデ王は嘆くのです。自分を殺そうとした息子であるわけですが、それでもダビデ王はアブサロムのことを愛さずにはいられないのです。

 このダビデ王のアブサロムに対する気持ちは、私たちに対する神さまの気持ちに似ています。神さまに愛されるのに私たちはふさわしくないわけですが、しかし神さまは私たちを愛してくださっています。神さまはだめな私たちを愛さずにはいられないのです。

 イエスさまは「弟子の条件」「塩気のなくなった塩」というたとえの中で、なかなかきびしいことを言われます。イエスさまの弟子になるためには、1)自分の十字架を背負ってついてくる。2)途中でやめない。3)自分の持ち物を捨てる。そんなことを言われると、ちょっと「わたしには無理かも」というふうに思えます。どうみても自分がこの条件を満たすことはできそうもありません。それではイエスさまのお弟子さんになることはできないのか。

 使徒パウロは「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」と言いました。人は何かできるから義とされるのではありません。何もできなくても、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされるのです。何もできないけれども、神さまの愛と憐れみによって、私たちは罪赦され、そしてクリスチャンになるのです。この「人はイエス・キリストを信じる信仰によって義とされる」というのが、いわばクリスチャンになる裏口です。しかしこの裏口こそが、ある意味、表口であるのです。

 弱さや高慢さのゆえに罪を犯す私たちのために、イエスさまは十字架についてくださり、私たちの罪をあがなってくださったのです。イエスさまは「自分の十字架を背負ってついてきなさい」「途中でやめてはだめです」「自分の持ち物を捨てて、わたしについてきなさい」と厳しいことを言われます。でも結局、イエスさまは私たちに言われます。「だめな人だけど、でもいいよそれで」「わたしのところにやってきなさい」。

 イエスさまの招きに応えましょう。イエス・キリストこそわたしの救い主と告白し、そして神さまの深い愛によって祝福され、こころ平安に歩んでいきましょう。


2023年9月9日土曜日

2023年9月3日

 2023年9月3日 聖霊降臨節第15主日礼拝説教要旨

「幸いなあなた。こちらへどうぞ。」 小笠原純牧師

  ルカによる福音書 14:7-14節

 1990年代にフェミニスト経済学が登場し、経済学においても、いままでの学問体系のなかで抜け落ちていたことに対する問い直しがなされています。このカトリーン・マルサル『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』を訳した、高橋璃子さんは「訳者あとがき」にこう記しています。【私たちが生活できるのは、そして食事を食べられるのは、アダム・スミスのいう「自己利益の追求」のためだけではありません。家事労働があり、人とのふれあいがあり、ケアがあってはじめて、社会は機能するのです。経済人が目を背けてきた「依存」や「分配」にここで光が当てられます】(P.267)。

 イエスさまも一般的に社会で考えられていることとは違うことを言われます。人は自分の都合とか、自分の利益ということで物事を考えるということがあります。しかしイエスさまは「神さまはどう思われるかな」という視点で、物事を考えられて、そして私たちに生きる道を教えてくださいます。

 イエスさまが話された「客と招待する者への教訓」という話は、前半の話など、ちょっと処世術ぽい話で、「現代マナー講座」というような話で出てきそうな話です。ただ一般庶民と違って、メンツを重んじる人たちもいるわけです。そうした人たちにとっては、やはり上席・末席の問題はなかなか大きな問題であったのでしょう。処世術ぽい話はともかくとして、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」ということに気をつける必要があったのだと思います。

 人がどのように見ているのかということではなく、「神さまがどのようにご覧になっておられるのか」ということを大切にしなさいと、イエスさまは言われるのです。謙虚な思いになって、いろいろなことを見直してみるということは大切なことです。私たちはついつい、この世のことだけに目がいってしまいます。しかし私たちによきものを備えてくださるのは、神さまです。イエスさまは「あなたは幸いだ。こちらにどうぞ」と、私たちに良き席を整えてくださっています。この世のことだけに目がいってしまい、上席と言われるその席に居座っていると、とんでもないことになるから、こちらにどうぞ。あなたの謙虚でやさしい振る舞いを、神さまはみておられるから、こちらにどうぞ。「あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」。

 神さまの愛のうちを、謙虚に歩んでいきましょう。神さまは私たちを祝福し、私たちに良きものを備えてくださいます。




2023年9月2日土曜日

2023年8月27日

 2023年8月27日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「私たちにもサマリア人はいるのか」 金鍾圭牧師

  ルカによる福音書 10:25-37節

 イエスの「善きサマリア人のたとえ話」は、イスラエル人とサマリア人の深い対立を背景にしている。北イスラエル王国滅亡後、首都サマリアでは、アッシリアの政策による雑婚が行われた。その結果、サマリアを含む元北イスラエル王国の人々は、血統の純粋を失い、誤った信仰を歩み始めた。さらにサマリア人は、200年後バビロン捕囚から戻った南ユダヤ人たちのエルサレム神殿再建を妨害しながら敵意を表し、ユダヤ人たちもこのようなサマリア人を嫌うようになったのである。これをきっかけで、ユダヤ人はサマリア人を差別し、両者の歴史的な対立が根深く続いていた。イエスは、このたとえ話を通じて「隣人愛」の範囲を問い直しているのではないのか。

 このたとえ話は、ある律法の専門家がイエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことをきっかけに語られる。イエスと律法の専門家の問答は、律法を軸に展開される。そして「では、わたしの隣人とはだれですか」との律法の専門家の問いかけに、イエスは「善きサマリア人のたとえ話」を語り始めた。たとえ話では、襲われた人を助けたのは、ユダヤ人が憎んでいたサマリア人だ。律法を厳守していた祭司やレビ人は、襲われた人を無視して通り過ぎたことが描かれている。

 普段サマリア人を見下していたユダヤ人は、このたとえ話に衝撃を受けたに違いない。この話は、律法の専門家だけでなく、イエスの弟子たちにも向けられていると思う。ルカによる福音書9章51節を見ると、弟子たちはイエスと共にエルサレムに向かうため、サマリアを通ろうとした際に、村人に歓迎されず、別の村に行ったと記されている。この経験によって、弟子たちはサマリアに対する怒りを感じていた。イエスは、このたとえ話を通じて、目の前にいる律法の専門家のみならず、ご自身の弟子たちにも「隣人愛」の真の意味を理解させようとしたのではないかと考えられる。

 イエスは「自分側の人」だけでなく、他者や敵に対しても愛を表すべきであることを示している。イエスの十字架の死は、すべての者に対する神の慈しみ深い愛である。私たちも「隣人愛」を振り返り、自分の隣人は誰なのかを考え直す良い機会と捉えるべきなのだ。差別や偏見に囚われず、イエスの教えを実践することで、より豊かな人間関係と愛の共同体を築いて歩んでいきたい。