2023年9月2日土曜日

2023年8月27日

 2023年8月27日 聖霊降臨節第14主日礼拝説教要旨

「私たちにもサマリア人はいるのか」 金鍾圭牧師

  ルカによる福音書 10:25-37節

 イエスの「善きサマリア人のたとえ話」は、イスラエル人とサマリア人の深い対立を背景にしている。北イスラエル王国滅亡後、首都サマリアでは、アッシリアの政策による雑婚が行われた。その結果、サマリアを含む元北イスラエル王国の人々は、血統の純粋を失い、誤った信仰を歩み始めた。さらにサマリア人は、200年後バビロン捕囚から戻った南ユダヤ人たちのエルサレム神殿再建を妨害しながら敵意を表し、ユダヤ人たちもこのようなサマリア人を嫌うようになったのである。これをきっかけで、ユダヤ人はサマリア人を差別し、両者の歴史的な対立が根深く続いていた。イエスは、このたとえ話を通じて「隣人愛」の範囲を問い直しているのではないのか。

 このたとえ話は、ある律法の専門家がイエスに「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねたことをきっかけに語られる。イエスと律法の専門家の問答は、律法を軸に展開される。そして「では、わたしの隣人とはだれですか」との律法の専門家の問いかけに、イエスは「善きサマリア人のたとえ話」を語り始めた。たとえ話では、襲われた人を助けたのは、ユダヤ人が憎んでいたサマリア人だ。律法を厳守していた祭司やレビ人は、襲われた人を無視して通り過ぎたことが描かれている。

 普段サマリア人を見下していたユダヤ人は、このたとえ話に衝撃を受けたに違いない。この話は、律法の専門家だけでなく、イエスの弟子たちにも向けられていると思う。ルカによる福音書9章51節を見ると、弟子たちはイエスと共にエルサレムに向かうため、サマリアを通ろうとした際に、村人に歓迎されず、別の村に行ったと記されている。この経験によって、弟子たちはサマリアに対する怒りを感じていた。イエスは、このたとえ話を通じて、目の前にいる律法の専門家のみならず、ご自身の弟子たちにも「隣人愛」の真の意味を理解させようとしたのではないかと考えられる。

 イエスは「自分側の人」だけでなく、他者や敵に対しても愛を表すべきであることを示している。イエスの十字架の死は、すべての者に対する神の慈しみ深い愛である。私たちも「隣人愛」を振り返り、自分の隣人は誰なのかを考え直す良い機会と捉えるべきなのだ。差別や偏見に囚われず、イエスの教えを実践することで、より豊かな人間関係と愛の共同体を築いて歩んでいきたい。


0 件のコメント:

コメントを投稿